その被写体として常に人類未体験の脅威を必要としてきたローランド・エメリッヒ。サイボーグ、宇宙人、怪獣、自然災害…。映像開発のハードルをひとつひとつクリアし、そこで得たサンプルを次に応用することで、映画におけるVFX技術の革新に大きく貢献してきた。そんな彼が決して同時代に生きる人間を敵としないのは、かつて米ソによって東西に引き裂かれたドイツを母国とするからなのだろうか。
エメリッヒが見せるビジョンは常に驚愕とともにあった。その功績に観客が熱狂する一方、とある批評家は「映像は凄いけど、中身はスカスカじゃないか」と罵るかもしれない。しかし映画とは、そもそもリュミエールがグランカフェで上映した「蒸気機関車」に端を発するものであり、当時、そこに居合わせた観客が驚きのあまりに席から飛び上がったとされる逸話からも、いま僕らがエメリッヒの『2012』をやはり「すげえな」と呟きながら見つめてしまう生態には、遺伝子上の符号性を感じずにいられない。
これはいわばお祭りである。万博である。映像見本市。あるいは技術報告会とも言えるのかも。もはやマヤ文明による「2012年、地球滅亡」という予言すらもあまり関係ない(予言のことにはほとんど触れられない)。ただ地が割れ、溶岩が噴出し、街が、いや世界が壊滅し、海水が津波となって山脈を襲う。ストーリーが多少おざなりになっても気にしない。「ンな、ばかな!」という観客の必死のツッコミさえ、ここでは大地のゴゴゴ…を増幅させる音響効果として、たやすく映画の内部へと吸収されてしまう。
だからこそ『2012』を、ディズニーの『ファンタジア』のごとく、音と映像のハーモニーとして受け止めることを提案したい。
そしてクライマックスにも増して緻密に描きこまれた前半部のハイライト、ロサンゼルスの大地震&脱出シーンを讃えよう。
スローモーションで崩壊していく高層ビルやハイウェイの間隙をすり抜けて、ジョン・キューザック演じる主人公らを乗せた車が、そして小型セスナがきりもみしながらなんとかサバイブを遂げていく。その窓からは、地表が隆起し、重力に重心を奪われた車両や人間が雪崩のように奈落の底へと呑み込まれていく光景がうかがえる。
複数のVFX工房が参加した本作ではシーンごとに多少クオリティの差があるものの、デジタル・ドメイン社担当のこのシーンに限ってはまるで絵画のような特殊効果が冴える。ダイナミックなVFX映像と、瓦礫の砂塵さえも見せつける映像の鮮明さが相俟って、まさにマクロとミクロが一気に眼前に押し寄せたかのような視覚情報の洪水。息継ぎにさえ苦慮するほどの映像世界に圧倒されながら、ようやく僕らの頭に思い浮かぶのは、「美しい…」の一言ではないだろうか。
最後に断わっておくが、『2012』を観て「地球が崩壊したらどうしよう…」と不安に駆られる心配はまず無い。本当に観客の恐怖心を刺激したいのならばそれは”ホラー”になるし、それはスペクタクル映画の本来の役割ではない。この映画の人間たちは、結局のところ、どんな状況に見舞われても生きる気満々なのだ。
そして当のエメリッヒだって、この映画とともに滅亡しようという気はさらさら無い。それどころか、この先『2012』で培った経験値を反映・増幅させ、さらなる未曾有の脅威をクリエイトしていこうと、秘かに誓いを立てていることだろう。
「2012」
これは、映画か
http://www.sonypictures.jp/movies/2012/
11月21日(土)より、丸の内ルーブル他全国ロードショー
【映画ライター】牛津厚信