クロッシング

3人の刑事。1つの事件。
それぞれの正義が交錯する―。

まるで街の神話だった―。

マンハッタンの美しい夜景からカメラがパンすると、イーストリバーを隔てた対岸に、その街ブルックリンが現れる。『クロッシング』はこの地の犯罪多発地帯に生きる3人の男たちをメインに、一方通行だったそれぞれの人生が微かに交差するまでを、むせかえるほど濃厚な筆致で描きだしたドラマである。

冒頭の会話からして象徴的だ。とある男がこう口にする。

「世の中に善悪の明確な境界線など存在しない。あらゆるものは“より善”か、“より悪”かだ」

この言葉が本作を定義づける。つまりこれは世に言う“クライム・サスペンス”とは様相を異にするわけだ。

他のジャンルムービーのように「典型的な悪」だとか「正真正銘のヒーロー」といった単純化はあり得ない。この映画ではすべての登場人物たちがそれら未定義の領域で悩みに暮れ、家族、友情、後悔、裏切り、孤独に押しつぶされそうになりながらも一つの決断へとすがりついていく。そこに神はいるようで存在しない。突き進むか否かを決めるのは、人間の内に宿した強靭にして脆弱な意志の力のみ。あるいはこの街に息づく彼らこそ、ギリシア神話のごとく悩める神々なのか。

リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードルが主軸を成し、そこに名脇役たちが華を添える。観客はこの物語に『トラフィック』や『クラッシュ』や『その土曜日、7時58分』の要素を見出すかもしれない。しかしここには“天使の羽根”のような映画的救済は見当たらない。そうした役者たちの焦燥に駆られた演技と、それを圧倒的な統率力で束ねていくアントワン・フークアの荒削りながら執念深い演出には言葉を失う。

こうしている最中にも、臨界点は一瞬で過ぎ去っていく。街の片隅で、本人たちも気づかないうちに互いに交錯しあう三者。だが、これはほんのきっかけに過ぎない。幕が下りても街の神話はつづいていく。ある意味、このエンディングによって物語は静かなはじまりを迎えるのかもしれない。

そして数多くの観客がこの映画に接続することによって、この邦題の意味するところの真の“クロッシング”が生まれていく。交差点はやがて大通りとなり、ブロックを呑みこみ、より善くも、より悪くも、新たな街の神話を築き上げていくことだろう。

【story】
守るための正義か、救うための正義か。
ニューヨーク、ブルックリンの犯罪多発地区。
退職目前のベテラン警官エディ(リチャード・ギア)。野望や野心を抱くことなくひたすら無難に過ごしてきた彼が最後の仕事として任されたのは、自身が最も苦手とする新人教育。熱い想いを持つ若者と自分の警官人生を照らし合わせ、苛立ちと、そしてなぜか焦りを感じていた。
信仰深く家族想いの麻薬捜査官サル(イーサン・ホーク)。病弱な妻と子供たちに約束した新居の購入の為、金の工面に奔走していた彼だったが、麻薬捜査の度に目にする大金を前に自らの正義感に変化が起こり始めていた。
出世と引き換えに危険な潜入捜査官の任に就くタンゴ(ドン・チードル)。なかなか出世を約束しない上司、腐敗が進む警察組織に不満が募る一方で、潜入しているギャングのボスの人間味に魅かれ始めていた。
決して交わるはずのなかった3人の刑事たち。ある日起きた警官による強盗殺人事件をきっかけにそれぞれの“正義”は思わぬ形で交錯する。 3つの不揃いな正義がぶつかった先には、衝撃の結末が待っていた―。


公式サイト http://www.cross-ing.jp/
10月30日(土)より、TOHOシネマズシャンテ、新宿武蔵野館他全国ロードショー

監督:アントワン・フークア 『キング・アーサー』『トレーニング デイ』
出演:リチャード・ギア、ドン・チードル
字幕翻訳:川又勝利
原題:Brooklyn’s Finest

配給:プレシディオ
(C)2008 BROOKLYN’S FINEST PRODUCTIONS, INC.

【ライター】牛津厚信

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2010年11月5日 by p-movie.com

エクスペンダブルズ

消耗品軍団、出撃。


エクスペンダブルズ、つまり消耗品の話である。かつて80年代に第一線で活躍したハリウッド映画を代表する不死身のマッチョが、いまだに最前線でマッチョを続けている。生涯現役、というと聞こえはいいが、要は万年平社員と同じである。かつてシルヴェスタ―・スタローンとマッチョ度を競い合ったシュワルツェネッガーはとうに自分を消耗品でない地位にまで高めてしまった。実生活においても、この映画の中でも。

ストーリーは単純至極。スタローンの指揮するゴロつき傭兵部隊が南米の独裁政権に闘いを挑む。ただそれだけ。“ジェイソン・ボーン”シリーズがアクション映画の定義を根底から覆してしまった昨今、30年前のアクションを地で行く本作はまるで精霊たちの饗宴のようにさえ見える。殺戮の量も半端ではないし、火薬の量も常軌を逸している。あまりに現実離れした描写の数々をバカバカしいと放棄しそうになる。

だが、一方で80年代を生きた男子ならば遺伝子レベルでどこかにあのカタルシスを記憶しているはず。僕らの身体はいつしか理性をすっ飛ばして、勝手に饗宴への参加を表明している。

きっと僕らは『アリス・イン・ワンダーランド』の白ウサギならぬ、髑髏マークの轟音バイク軍団に導かれ、いつしかミッキー・ロークが営むバーに迷い込んでしまったのだろう。そこに漂うのは本作に登場するあらゆる武器にも増して強烈で危険な臭気を放つ“ノスタルジー”だ。これを鼻孔に感じてしまったら最後。大味な演技も、大げさなアクションも、洗練さとはかけ離れたジョークの類も、どれもツボにはまって、まるで自分自身があの頃の同窓会にでも参加しているような感慨にへと潜り込んでしまう。僕らはかつて、このノリ、この仲間たちが大好きだったんだ。そしてその同窓会には、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リーといった同ジャンルの後輩たちも見事に顔を揃えている。

『ロッキー・ザ・ファイナル』、『ランボー 最後の戦場』、そして『エクスペンダブルズ』・・・。

スタローンは自分たち“大味なアクション俳優”がもはや絶滅危惧種であることを知っている。それに自分がシュワちゃんのごとく政治家になるにはあまりに滑舌が悪すぎることも知っている。

でもだからこそ背水の陣を利用して彼は史上最も泥臭い闘いを挑む。そして敵に対にも、観客に対しても見事なまでに耐久戦の勝利を収めてみせる。いや、何よりも、かつてアメリカ合衆国を象徴したはずのそのマッチョな身体を、いまこの時代における悲壮感のカタマリとして世界に提示できるクレバーさ。これこそが彼の最大最強の武器と言えよう。

フィクションであれリアルであれ、フィクサー的に世界を動かすのがシュワちゃんだとすれば、スタローンはいち早く現場へ乗り込んで肉弾戦をおっぱじめる実行部隊だ。しかしこれらのバランス感覚、計算高さからすると、現場主義のスタローンの方がよっぽど頭が切れる。そんな気がするのだ。

率先して泥にまみれる男こそ、本当は最もフィクサーと呼ぶにふさわしき人物なのかもしれない。少なくともこの映画いおいては。

http://www.expendables.jp/
10月16日(土)より丸の内ピカデリー1ほか全国にて公開

(C) 2010 ALTA VISTA PRODUCTIONS, INC

【ライター】牛津厚信

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2010年10月27日 by p-movie.com

エル・トポ 製作40周年デジタルリマスター版

すべての常識を超える、映画の神秘体験


(c) ABKCO Films. All rights reserved.

真っ青な空。一面に広がる砂漠。

そこに全身黒づくめの男が、馬にまたがってゆっくりと近づいてくる。手にはコウモリ傘。後ろには素っ裸の男の子がちょこんと座っている。男は目印のあたりで馬をとめ、少年に向かってこう言う。

「お前はもう7歳になった。さあ、“オモチャ”と“母さんの写真”を砂に埋めろ」

これが1970年の奇跡とまで言われた『エル・トポ』のファースト・インパクトである。セリフに意味を求めても答えは出ない。要はこの感覚に共感できるか、否かだ。ジョン・レノンだって、アンディ・ウォーホール、ミック・ジャガー、デニス・ホッパーだって、この映画に惚れ込んだ人なら誰もがこのオープニングに等しく心を震わせた。そして今、あなたも。

激動の60年代を越え、70年代に到達した表現者の葛藤がここにある。監督を務めたのはアレハンドロ・ホドロフスキー。チリ出身のロシア系ユダヤ人。世界を放浪したあげくにメキシコに辿り着き、映画製作の道に迷い込んだのだとか。彼が60年代に『エル・トポ』を発していたなら、彼は革命家になったかもしれない。だが、彼は幸か不幸か70年代にまたがった。それはまた別次元の、新しい時代だった。

これはホドロフスキーの描く、詩的なアドベンチャーであり、ビザールなウェスタンであり、文明が破壊されたあとの未来世界、あるいは宗教的絵画のようでもある。

次々と予測を裏切り飛躍を遂げていく本作を見ながら、映画たるものこんなにも自由でいいのか、と驚愕した。と同時に、自由であることの恐ろしさに震撼した。『エル・トポ』には確かに奇想天外、荒唐無稽な創造性が極限まで詰まっている。しかしそれらはどれもが血のにじむほどの葛藤によって勝ち取られた戦利品。マーケティング理論に基づく大量消費社会とは見事にかけ離れた一点もののシロモノである。この先フォロワーが器用にマネしようったってできるものではないし、そもそも出資者がそうさせるはずがない。


(c) ABKCO Films. All rights reserved.

旅する男=エル・トポはやがて神をも越えようとする。砂漠をグルグルと徘徊し、敵を見つけては勝負を挑み、汚い手を使ってでも必ず勝つ。古より繰り返してきた人類の歴史がこの砂漠でエンドレスに繰り広げられている。バックには何故か仏教的な読経の声。そしてこの無意味な闘いの果てに、男は悟りの境地に辿りつく。その瞬間、壁がメラメラと崩壊する。しかしその先には更なる壁がそびえたつ。きっと、その先、そのまた先にも。。。この孤独な闘いには終わりなどなど存在しない。するわけがない。

だからこそ、僕らは70年代だって00年代だって、変わらず怯まず自由を叫び、苦闘に身をさらす。壁を壊す。そのまた先を目指す。立ち止まる。泣き崩れる。裏切られる。殺す。殺される。そして僕らは、ジョン・レノンが、ウォーホールが、ミック・ジャガーがそうしたように、また等しく『エル・トポ』のラストシーンに立ち会うことになる。

それは奇しくも本作の冒頭へと連なる序章だった。まるで輪廻転生。これほど遠くまで旅してきたのに、僕らは箱庭から一歩も外に出ていなかったかのよう。これは絶望なのか?希望なのか?

そして哀しいかな、これまで熱に浮かされたように息巻いてきた筆者にも、この映画が傑作なのか、駄作なのか、一向に答えが出せずにいる。

しかしこれだけは言える。そこにはただ、圧倒的なパワーと創造性が渦巻いていた。いかなる尺度でも収まりきらない。無規格・無秩序の幸福こそが『エル・トポ』そのものなのだ。


(c) ABKCO Films. All rights reserved.

http://www.el-topo.jp/
ヒューマントラストシネマ渋谷にて公開中

【ライター】牛津厚信

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カテゴリー: 南米・オセアニア | 映画レビュー

2010年10月27日 by p-movie.com

桜田門外ノ変

幕末の変事を描く時代劇大作


(C)2010『桜田門外ノ変』製作委員会

 最近、近年の歴史ブームに呼応するかように、新作の中に時代劇が多く見られるようになった。例えば、池宮彰一郎の小説を映画化した「最後の忠臣蔵」、池宮の脚本家・池上金男としての代表作を再映画化した「十三人の刺客」、幕末の薩摩藩士・中村半次郎を描いた「半次郎」等の作品があるが、歴史と正面から向かい合った作品といえば、まず本作が挙げられるだろう。何しろ、茨城県の地域振興を目的に全県がバックアップ。記録文学で名をなした吉村昭の小説を原作に、水戸市の千波湖畔に総工費2億5000万をかけて桜田門外のオープンセットを建立し、それまで史実通り描かれる事のなかった”桜田門外ノ変”とその周辺を再現しようという企画だけあって、本格的な歴史時代劇に仕上がっている。
 安政7年(1860年)2月18日、水戸藩士・関鉄之介は妻ふさと息子の誠一郎に別れを告げ、故郷から出奔する。水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼を討つべく江戸に向かった彼は、3月3日の雪の日、桜田門外で井伊を襲撃する。鉄之介を始めとする水戸脱藩士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門を加えた襲撃の実行部隊18名は、襲撃計画の立案者で水戸藩尊王攘夷派の指導者・金子孫二郎指揮の下、見事井伊の首を刎ねる。襲撃隊は稲田重蔵が闘死、4人が自刃、8人が自首。鉄之介は、京都へと向う。薩摩藩が挙兵し、京都を制圧、調停を幕府から守るという計画があったのだ。だが、薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は瓦解。幕府側からは勿論、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は、「桜田門外ノ変」に至る歳月を振り返る…。

散っていったものたちへの哀惜の思い


(C)2010『桜田門外ノ変』製作委員会

 監督の佐藤純弥は、「男たちの大和/YAMATO」でも、戦争で散っていった者たちへの哀惜の思いを描いたが、本作でも、激動の時代に日本の将来を思い、行動した無名の人々の生き様を見つめていく。複雑多岐に渡る原作を、関鉄之介を軸にした暗殺に加わった浪士たちの過酷な運命に視点を据える事により、要領よく纏めた脚色が巧みで、それに幕末から明治に至る時代背景がしっかりとかぶさり、硬派の時代絵巻を創り上げている。
 歴史の中に埋もれた人々を過剰な思い入れを排したドキュメンタリー的なタッチで描きながら、そこに人間の息吹を吹き込み、現代に生きる我々に”時代”との関わりを鋭く問う。”見終わった後に、今という日本の社会にいかに関わっていけるんだろうと考えてくれれば”と語る監督の思いはしっかりと伝わってくる。
 だが、そこは、「新幹線大爆破」「敦煌」等の数々の大作を撮って来たベテラン職人監督。リアリズムで描いた桜田門外ノ変では、集団戦の迫力を巧みに再現。逃亡中の関鉄之介と拳の達人の福井藩士との一騎打ちでは、打楽器の音楽のみを使い、勝負の緊迫感をじっくりと描き出す懐の深い演出を披露する等、娯楽大作の”趣”も忘れていない。
 また、出演陣も大作に相応しい実力派のキャストが顔を揃えており、鉄之介役の大沢たかお以下、西村雅彦、柄本明等の演技派が、悲劇的な運命を歩む浪士たちを力演。水戸家当主・徳川斉昭を貫禄たっぷりに演じる北大路欣也、出演場面は少ないながら、事件の要となる井伊直弼の倣岸な人物像を巧みに演じる伊武雅刀等、正統派の歴史大作に相応しい重厚な演技を見せている。そして、男優陣が殆どを占める主要キャストの中にあって、鉄之介の妻ふさ役で清楚な美しさを見せる長谷川京子、鉄之介の愛人で、獄死という悲惨な運命を辿るいの役の中村ゆりが、艶やかな彩りを添えているのも記しておきたい。


(C)2010『桜田門外ノ変』製作委員会


(C)2010『桜田門外ノ変』製作委員会

桜田門外ノ変
2010年 日本映画 カラー 137分

監督:佐藤純彌
脚本:江良至、佐藤純彌
原作:吉村昭『桜田門外ノ変』
企画:橘川栄作
プロデューサー:三上靖彦、川崎隆、鈴木義久
撮影:川上皓市
美術:松宮敏之
音楽:長岡成貢
音楽プロデューサー:池畑伸人

出演:大沢たかお、北大路欣也、池内博之、長谷川京子、柄本明、生瀬勝久、西村雅彦、伊武雅刀、加藤清史郎

東映配給
10月16日より全国東映系にて公開
公式HP:http://www.sakuradamon.com/

【映画ライター】渡辺稔之

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カテゴリー: 日本 | 映画レビュー

2010年10月18日 by p-movie.com

終着駅‐トルストイ最後の旅‐

大作家と“世界三大悪妻”の名高い妻ソフィヤとの知られざる愛の物語

1

トルストイと聞いて手垢のついたロシア文学の残骸と侮るなかれ。さすが革命直前のロシアに生きた文豪は老いてもなお素晴らしくパンキッシュな人生を歩んでいる。戦争従軍、宗教批判、農奴解放、財産放棄。あらゆるタブーを打ち破ってきた突き進む彼の周囲には、その威光にすがろうとする信奉者がいっぱい。そして最愛の妻ソフィアとも口論の絶えない毎日。そんなこんなでトルストイ、ある日とつぜん、ついにブチ切れた。

「俺は出てく!」

かくして、巨匠82歳の家出が幕を開けるのだが・・・

実際のトルストイの生涯からインスピレーションを得た小説を『素晴らしき日』『卒業の朝』のマイケル・ホフマン監督が脚色化。たとえフィクションだと分かっていても、ここには想像するだに楽しく、深く、一筋縄ではいかない多種多様な愛情のかたちが刻まれている。アメリカではアカデミー賞前哨戦に突如として注目を浴び、ミニシアター系ながらたくさんの観客を動員した。

初めに断わっておけば、本作はロシア語ではない。全編英語だ(製作国は、ドイツ、ロシア、イギリス)。トルストイの世界観をロシア語特有の口の奥から絞り出すかのような語調と共に読み込んでいる人にとっては冒涜にも等しい映像化なのかもしれない。が、同時に思うのだ。もしも本作がロシア語で、しかもロシア単独製作で作られたなら、これほど光に満ちた軽快なコメディに仕上がっただろうかと。

かくも本作はひとつの要素を捨てて、ひとつの要素を獲得した。そうやって取捨選択を繰り返すことで、この瞬間にしか生じえないトルストイ像を掘り起こすことに成功している。

また、この映画が最後に辿りつく“終着駅”という舞台設定には唸らされる。列車とは日々多くの人生を運び来るもの。トルストイを慕う多くの人たちがこの地を訪れ、そこで静かに頭を垂れる。この敬虔な表情に言葉など要らない。僕らもまた同じ。1時間50分の人生を経て、カメラはいま群衆にまみれる。観客の視点はその一部となり、いつしか僕らもこのパンキッシュな老人に対し自然体のうちに深々と頭を垂れていることに気づかされるだろう。

そして本作は終着駅が裏を返せば“始発駅”でもあることを教えてくれる。

きっとあの瞬間からトルストイの新たな人生が始まったのだ。列車は今なお走りつづける。その延長線上に、いま僕らがこの映画に接する瞬間も存在している。

2

9月11日(土)よりTOHOシネマズシャンテ/Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
終着駅‐トルストイ最後の旅‐
http://www.saigo-tabi.jp/

【映画ライター】牛津厚信

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2010年9月15日 by p-movie.com