エリックを探して

人生なんて、意外に小さな勇気でかわるもの


最高だ。最高過ぎる-。ロンドン-成田間の飛行機の中でこの映画を往復3回も観てしまった。その後、東京国際映画祭での公式上映、UK版DVD、年末から始まった東京上映でも本作と再会したものの、まだまだ飽き足らない。

そして観客を最高の気分へと押し上げてくれる映画の余韻に浸りながら、筆者は毎度、「信じられるか?これがあのケン・ローチの映画だなんて」と自分自身に問いかけてしまうのだ。

この小さな自分革命の物語は、格言めいたこの一文で幕を開ける。

“It all began with a beautiful pass from Eric Cantona.”

近年、若返りの作風で注目を集めるケン・ローチの最新作は、どこをとっても驚きづくし。なにしろ昔の女房を忘れられない男が、マリファナの一服で元サッカー選手エリック・カントナ(幻か?精霊か?)を自室へと招聘し、憧れの彼から人生哲学の教えを乞うときたもんだ。

サッカー大好きケン・ローチのことなので、本編にはもちろんエリック・カントナ現役時代の名シーンが満載。なるほど、これをスポーツの芸術的瞬間というのだろう。ほんとうにたった一本のパスから電流が走ったかのようにスタジアムの観客が総立ちになる。そして熱気は沸騰へと変わる。

「魔法使いが現れて奇跡を起こす」という筋は、僕らが幼少期から慣れ親しんできたありきたりなものだが、ローチ監督はこの素材をリアルな大人の物語、明日を切り開くための物語へと引き寄せてみせる。その魔法の導き手となるのが、他ならぬエリック・カントナ、本人というわけだ。彼もこの巨匠による大抜擢に応え、選手時代そのままの破天荒かつ力強い存在感でスクリーンを席巻していく。

そもそもローチ作品といえば、これまで“組合”や“社会主義”といった概念がハードに打ち出されることが多かった。だが今回は彼も手法を変え、これらを「チームメイトへの信頼」という最もソフトな落とし所へと集約させる。

やがて訪れる家族の大ピンチ。不運つづきの主人公。そしてひとりが悩んでいれば何処からともなく駆けつけ、“おせっかい”が感動に変わるほど強引に手を差し伸べてくれる職場の仲間たち。苦しい季節を駆け抜けて、ついに彼らが一致団結して繰り出すラストの大逆襲は本当に爽快で楽しい。

ケン・ローチのタッチは時代とともに変幻自在。「すべてがカントナのパスからはじまる」とすれば、これはあたかもローチから僕らに託された、巧妙で真心に満ちたゴールチャンスのようではないか。

あとはその球をゴールへと叩き込むだけ。

「さあ、ほら、蹴りだしてごらん!」

ローチやカントナ、そして後ろに控える無数の仲間たちの野太い声援が、少々苦しい時代を生きる僕らの背中をポジティブに押し出してくれる。なんだか底知れぬ元気をもらったような、ホカホカした気持ちに包まれる。人間って、仲間っていいなと、素直に思える。

『エリックを探して』はそんな映画なのだ。

監督:ケン・ローチ(「麦の穂をゆらす風」カンヌ国際映画祭パルムドール受賞)
脚本:ポール・ラヴァティ
出演:スティーヴ・エヴェッツ/エリック・カントナ/ジョン・ヘンショウ/ステファニー・ビショップ
配給:マジックアワー+IMJエンタテインメント
英語タイトル: LOOKING FOR ERIC

【公式サイト】 http://www.kingeric.jp
12月25日(土)、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー

(C)Canto Bros. Productions, Sixteen Films Ltd, Why Not Productions SA, Wild Bunch SA, Channel Four Television Corporation,France 2 Cinema, BIM Distribuzione, Les Films du Fleuve, RTBF (Television belge), Tornasol Films MMIX

【ライター名】牛津厚信

.

カテゴリー: ヨーロッパ | 映画レビュー

2011年1月12日 by p-movie.com

トロン:レガシー

20年前に失踪した父を探して、
美しく危険なコンピューターの世界へ―。

まず現状として『トロン』を知らない人が圧倒的に多すぎる。なので「レガシー(遺産、受け継がれたもの)」と銘打ったところで「何が?何を?」というところから始めなければならない。が、実際のところ1982年製作の前作の知識など、ほとんど必要ない。これは3D博覧会のパビリオンみたいなもの。2010年は3D元年と呼ばれたが、『アバター』の約1年後、それを締めくくるのにふさわしい独創的な3D世界がディズニー・ブランドよりお目見えしたというわけだ。

それはまさに暗闇に蛍光グリットの線がひた走る、壮大なエレクトリカル・パレードだった。

かつて大量のアーケード・ゲームとその愛好者たちで賑わっていたゲームセンター周辺は、20年後の現代、すっかりゴーストタウンと化していた。失踪した父の痕跡を求めてそこへ足を踏み入れた息子サムを、レトロなゲーム機「トロン」が秘密部屋へと誘う。その背後で作動する自動転送装置。瞬く間にサムはトロン世界へと放り出され、かつて父が聴かせてくれたベッドタイムストーリーを現実のものとして受け止めることになる。

と、そこへ上空から旋回して舞い降りてくる赤いグリッド線の監視艇。サムはなにも分からぬまま分厚いヘルメットを被った謎の男たちによって連行されることに。。。

ここからは『グラディエーター』よろしく、未知なる世界で囚われた者が、コロセウムに送還され、擬人化されたプログラムとの死闘を余儀なくされる。生き抜かなければここから出られない。武器は背中に装着したディスク。これを振りかぶって、バウンドさせて、相手の身体を破壊する。ルールは1982年当時の『トロン』と変わらない。

ふと見上げると、コロセウムの特等席にはヘルメットの男が鎮座している。彼こそがこの世界の生みの親にして、統治者。そしてその素顔は・・・もう話の流れからおわかりだろう、サムの父親、ケヴィン。それも20年前と全く変わらない若々しいまでの彼の姿がそこにあった(この映像には『ベンジャミン・バトン』と同じ技術がつかわれているという)。。。

とまあ、「父を超える」といった古代ギリシアからスターウォーズを経て現在に至るまで受け継がれる神話の系譜が、ストーリーや専門用語を理解せずとも映像としてシンプルに流れ込んでくる。逆を言えば、物語に真新しさはない、ということなのだが。

いや、むしろ本作は何も考えずに3Dオペラとして体感的に楽しむべきものなのだろう。今回のプロジェクトを一任されたのは36歳のジョゼフ・コジンスキー。長編映画を手掛けるのはこれが初めて。CM演出では数々の受賞を受けている逸材だが、その真価はやはり誰にも有無言わさぬほどの3D映像の専門家&研究家であることに尽きる。このエキスパートがスクリーンの暗闇から下げ膳、据え膳のごとく繰り出してくる映像演出の数々に、僕らはスクリーンの四隅の限界やこれが3Dフォーマットであることも俄かに忘れ、果てしない蛍光グリット沿いの疾走に身体を任せることになる。3Dにありがちなゴチャゴチャしたビジュアルの混濁はない。研ぎ澄まされたイメージが一点透視図法の終着地を目指すがごとく、余分なものをそぎ落とし、スッキリと伝達されてくる。

また、ダフトパンクによるサウンドトラックがテンションを高める。『トロン』世界をこれほどまでに効果的に演出するデジタル音楽は彼らにしか作り得なかっただろう。また音楽のみならず彼らのお馴染みフルフェイス・マスクのコスチュームが本作『トロン:レガシー』のデザインに与えた影響もまた大きいように思える。

『アバター』よりも進化した撮影カメラ&システムを採用した本作、その成果としては『アバター』の熱狂性や情熱とは真逆の、センスやクールさを追究したきらいもある。はたしてこの趣向は映画ファンにどう受け止められるだろうか。

ぜひ2010年という時代を総括しながらこの『トロン:レガシー』の革新映像に臨んでほしい。これは、トロン世界のみならず、3D映画の来年、そのまた向こうを見通すプレゼンテーションとしても重要な意味を持つはずだ。

(C)Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

公式サイト http://www.disney.co.jp/tron/
12月17日(金)3Dロードショー

【ライター】牛津厚信

.

カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2010年12月17日 by p-movie.com

君を想って海をゆく

少年はドーバー海峡を泳いで渡る―
対岸のイギリスに暮らす恋人に会うために。


日本に暮らしながら、遥か遠方の移民や難民について想いを馳せるのは至難の業だ。

しかし、かつて『扉をたたく人』(原題:The Visitor)という名作が、その穏やかな語り口によって観客の目線を巧みにその実態へといざなったように、映画という魔法は時として、瞬く間に国境や人種、文化の壁を消滅させる力に満ちている。フランス映画『君を想って海をゆく』はまさにその魔法を想いださせてくれる、静謐な力強さに胸が熱くなる名作だった。

物語の舞台は光とトラックとコンテナと汽笛の音に満ちたフランスの玄関口カレ。イギリスの対岸にあるこの都市には大勢の難民たちがたむろし、イギリスへの密航のチャンスをうかがっている。そんな中、クルド人青年ビラルはイギリスで暮らす恋人に逢うために、荒廃したイラクから3か月もかけて、今日ようやくこの町に辿りついた。彼の前に立ちはだかるのは最後の難所ドーバー海峡。仲間と共に積み荷に潜り込もうとするが、その試みはあえなく失敗に終わる。

翌日、彼はひとつの決心を胸に町のプールへ足を踏み入れる。そこには仏頂面の水泳コーチがひとり。ビラルはなけなしの金をはたいて、なんとか2回分のレッスン代にあてる。

そう、彼はドーバー海峡を泳いで渡ろうとしている。

そのために、たった2回分のレッスンで泳ぎを習得しようとしているのだ。

妻との離婚協議中で傷心の日々を送っていた水泳コーチのシモン。これまで難民問題にまったく関心の無かった彼の心は、少しずつ動き始める。そして恋人に逢いたい一心のビラルを、本気で応援しはじめる。まるで自分の息子のように。そしてシモン自身も失いかけていたものを必死に取り戻そうとするかのように。。。

フランスで公開されるや、たった5週で観客数が100万人を突破したという。それほどまでにフランスでは難民問題が深刻化しているわけだが、本作はそれらの問題を投げかけながらも、究極的には自分と他者とをつなぐ絆を互いに手繰り寄せる、そうした人間の生き方において土台となる部分の重要性を想起させてくれる。

ビラルは本当にドーバーを渡ろうとする。彼の行く手には高波や潮の満ち引き、巨大なタンカーのもたらす引力が待ち構えるだろう。しかし、彼の目指す目標は変わらない。

このひたむきな若さを体現した新人俳優も素晴らしければ、もう一方の、重くきしんだ心の扉を少しずつ押し開く中年コーチ役、ヴァンサン・ランドンのまなざしにも圧倒される。彼はもはや青年のような意志や行動力もないし、目の輝きも死んでいるが、それでもなお心だけは死んでいない。自らを奮い立たせ、人と想いを通わせるための十分な余力を振り絞っていく。彼の表情の変化はまるで観客の心のざわめきと胎動を鏡面的に映し出しているかのようだ。

『扉をたたく人』の大学教授はここにも居た。国も言語も文化もジャンルも設定も違うが、彼らのようなごくささやかな日常の闘士はどこにだって偏在する。今日も世界のどこかで、自らの許容の限界を少しずつ広げながら、なお他者との接点を求め、扉をたたき続ける。

そして彼らの物語は、遠い島国に暮らす僕らにも、本作の原題でもある”WELCOME”の意味を、より深く伝えてくれる。

(C)2009 Nord-Ouest Films-Studio37-France 3 Cinema-Mars Films-Fin Aout Productions.
配給:ロングライド
公式サイト http://www.welcome-movie.jp/
12月18日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町他にてロードショー

【ライター】牛津厚信

.

カテゴリー: ヨーロッパ | 映画レビュー

2010年12月17日 by p-movie.com

ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1

2001年から続いてきた映画版もいよいよ最終章へ突入。11月19日公開の「PART1」と、2011年7月15日公開の「PART2」で正真正銘のフィナーレとなる。『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』よりシリーズを統率してきたデイヴィッド・イェーツ監督曰く、「Part1はロードムービーに、Part2はオペラと呼ぶにふさわしい壮大なものになる」とのこと。さて、今回の“ロードムービー”とやら、完成度のほどは?

その冒頭、今回初登場となる英国俳優ビル・ナイの超アップ映像が風雲急を告げる。ビル・ナイとイエーツといえば『ある日、ダウニング街で』(05)の主演&監督コンビとして高評価を受けた仲。ついにこの俳優が顔を出してきたことからも、シリーズ最終レーンのゴングの高鳴りが聞こえてくる。

彼が演じるのは新たな魔法大臣。ついに公に悪の帝王ヴォルデモートの復活を認め、もう世界は安全ではなくなった、と事実上の非常事態宣言を発令する役割だ。

その切羽詰まった渦中でくだされる魔法使いそれぞれの決断、別れ、そして旅立ち。

ハリー、ロン、ハーマイオニーらは大人たちのもとを離れ、7つの「分霊箱」を探す旅に出る。それらはヴォルデモートの魂を分離し、彼の力を最強たらしめている秘密でもある。ハリーたちがヴォルデモートを倒す唯一の方法は、これら分霊箱をひとつひとつ破壊し、悪の帝王の力を少しずつ削ぎ落していくことだった―。

実は今回の映画版で個人的にとてもショックなことがあった。僕が「ハリー・ポッター」原作を通して最も好きだった場面、太っちょで意地悪な従兄ダドリーがハリーに感謝の言葉を口にするシークエンスが丸っきりカットされているのだ。この箇所を読みながら不覚にも涙したというのに、なんということだ。。。しかし映画の資料に目を通すと、製作を担うデイヴィッド・ヘイマンの言葉にその舞台裏が垣間見えた。

「僕らは第3作目を境に、物語をハリーの目線で描こうと、方向転換したんです」

なるほど、だからこそ本作は第3作目から驚くほど洗練されていったのだ。太っちょ従兄ダドリーの主観にスポットが当たらなかったのは極めて残念だが、ここは涙を呑み、謹んで本作の更なる輝きに期待しよう。

と、心新たに臨んだ『ハリー・ポッター』。もはやかつてのキッズムービーの様相はどこへやら。そのあまりのダークさには大人の観客であっても身をのけぞらせてしまうことだろう。魔法戦闘シーンも『賢者の石』の頃のような杖を振ってパパパパーンと光が放射される趣向は毛頭なく、もはや戦争の域。銃撃戦のように激しく小刻みに容赦のない破壊合戦が繰り広げられる。

幼なじみの3人がこれまで慣れ親しんできたホグワーツやロンの自宅を離れ、全く勝手を知らないロンドンの繁華街やスコットランドの大自然へと身をさらす。これってまるで青年の通過儀礼みたいだ。幼いころより彼らの成長を見守ってきた観客側としても胸が熱くなるのを禁じえない。

また、史上最もお金のかかったこのロードムービーは、実のところそのロード部分に関しては“杖ひと振り”の瞬間移動で事足りるので、路上を楽しむ醍醐味こそ欠ける。が、それでも彼らが精神的な葛藤を乗り越えて結束力を高めていく過程を見つめる上で、やはり“ロード”は出現している。

いや、これはストーリー上というよりもむしろ、演技上の達成度が素晴らしいせいかもしれない。これまではあまり意識していなかった3人の青年俳優のプロフェッショナリズムが、今回いよいよ英国名優たちの力に依存しない形で“一人立ち”をはじめたな、と思えるのだ。それゆえのロードムービー=俳優修業=最期の試練というわけだ。

ちなみに本作は2D撮影後に3D変換処理がなされるはずだったが、その作業が間に合わず、ワーナーブラザーズは本作を2D版のみで上映する決断をくだした。だが、幸か不幸か、結果的にそれでよかったと僕は思っている。それは、本作は随所に3Dを意識した奥行きのある撮影方法を取っているものの、全体的にあまりにダークで、衝撃性を伴った演出が組み込まれており、小学生の観客が3Dで享受するには刺激が強すぎるように感じたからだ。

アメリカでのレーティングでは『炎のゴブレット』『不死鳥の騎士団』以来となる「PG-13」指定(前作『謎のプリンス』は“PG”だった)。これは想像でしかないが、本作が仮に3Dで公開されたならば、もう少しレーティングが厳しくなったのではないだろうか。そういう危惧を覚えるほど本作には緊迫感が満ち満ちている。ってことはむしろ大人の観客にとっては打ってつけということでもある。

さて、「PART2」ではいよいよクライマックスの大戦闘が待っている。その舞台にはPart1でほとんど描かれることのなかったホグワーツ魔法魔術学校がフィーチャー。イェーツ監督の奏でる「壮大なオペラのごときフィナーレ」は一体どう華々しく緞帳を下ろすのだろうか。

公式サイト http://harrypotter.warnerbros.co.jp/hp7a/
11月19日(金)、丸の内ピカデリー他全国ロードショー

(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. HARRY POTTER PUBLISHING RIGHTS(C)J.K.R.  HARRY POTTER CHARACTERS, NAMES AND RELATED INDICIA ARE TRADEMARKS OF AND(C)WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED

【ライター】牛津厚信

.

カテゴリー: アメリカ | ヨーロッパ | 映画レビュー

2010年11月19日 by p-movie.com

スプリング・フィーバー

狂おしいほどの欲望と、絶望。
移ろい、漂う、心と身体。


春の微熱―。

寝てるのか覚めているのかもよくわからない。私の意識はただ宙を彷徨い、気づけばぼんやりと夜明けの南京を眺めやっている。すべてが青に包まれるこの瞬間。ふと春の嵐が吹き荒れる。水面は幾重にも波動を膨らませ、森の木々は音を立てて騒ぎ立て、そして私の胸の内も少し、ざわめく―。

『スプリング・フィーバー』の映像に触れながら、そんな心の声が聞こえたような気がした。

『天安門、恋人たち』でタイトル通りの中国のタブーを扱い、当局より5年間の活動中止処分を受けたロウ・イエ監督。それは映画監督にとって死刑宣告にも等しいものだったろう。

だがロウ・イエはその処分をものともせず、当局の許可を一切受けぬままに『スプリング・フィーバー』を撮り上げてしまった。いわゆるゲリラ撮影というやつだ。監督にとっても俳優にとっても、ある程度の覚悟を必要とする仕事だ。そんな表現者としての大勝負の心情を、ロウ・イエは闘争心や憎しみに例えるでもなく、ただひたすら“春の微熱”へと昇華させている。少なくとも僕にはそう感じられた。

そこには大規模な経済発展を遂げる表向きの中国とはまた別の顔があった。この価値観の多様ぶり。そこで写し取ったものを芸術性へと発露させる卓越した手腕。転んでもただでは起きないどころか、それを作品として持ち上げていく得体の知れぬパワーに驚嘆させられる。

**

人目を避けて激しく求めあう男と男がいる。夜な夜な繁華街に繰り出す彼らを、背後からひとりの探偵が追う。彼は男の妻に頼まれ、彼らの情事を逐一報告する役目を担っていた。探偵にも女の恋人がいた。が、ふとしたきっかけが運命を変える。差しのべられた手。彼もまた、気づけば境界を高く越え、深い微熱に呑みこまれようとしていた。。。

中国で同性愛がどれほど受け入れられているのか分からない。が、欧米ほどオープンでないことはよくわかる。身を切るほど哀しく織りなされる愛の風景は、「夜の闇」と「探偵の出現」によってフィルム・ノワールのごとく妖艶かつスリリングに展開。やがて闇(ノワール)は朝の光に中和され、観客は夜明け前の“青”が支配する極めて幻想的な情景へといざなわれていく。

***

果たして、この映画の中のたったひとりでも、望むべき愛を貫けた者はいただろうか。誰かにその愛を祝福してもらえただろうか。その運命に後悔はなかっただろうか。

そこに答えは存在しない。

男はただ微熱だけを携えながら、ひとり南京の街を歩き、雑踏へと飲みこまれていく。

そんな姿がこの中国で孤独にカメラを回し続けるロウ・イエそのもののように思えた。映画製作という究極の愛撫の手段を禁じられた男が、なお愛を叫んでいる。またその愛は、当局からすればイビツで出来そこないの愛かもしれないが、この狂おしい2時間に身をさらすと、まるで祖国への熱を帯びた恋文のように感じられてやまない。

この世のすべては春風のいたずらのごとく移り変わる。中国社会も然り。その変移はこの国が『スプリング・フィーバー』とロウ・イエという才能を徐々に体内へと受け入れていく過程とも言えるのかもしれない。

ロウ・イエを定点観測していれば、中国文化の体内温度が手に取るようにわかる。彼がこれからもジャ・ジャンクーと並ぶ“中国社会の映し鏡”として世界の注目を集めていくことは間違いない。

http://www.uplink.co.jp/springfever/
11月6日(土)、渋谷シネマライズほか、全国順次ロードショー

【ライター】牛津厚信

.

カテゴリー: アジア | 映画レビュー

2010年11月5日 by p-movie.com