桃まつり 壱のうそ

女性監督の数は絶対的に少ない。しかしこれは大きなチャンスでもあるのだと、短編競作『桃まつり』(3月13日~26日、ユーロスペースにてレイト公開)を見ながら気付かされた。

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仮に男ばかりの競演を「男まつり」と称したところで、誰の食指も動くまい。女性監督の実力と感性がひとたび観客の心を鷲づかんだなら、彼女たちは手ごわい。並居る凡才な男たちをなぎ倒し、一気に全国区へ駆け上がっていける。『ディア・ドクター』の西川美和しかり、『めがね』の荻上直子しかり、『ウルトラ・ラブ・ストーリー』の横浜聡子しかり、ついでにオスカー受賞作『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー監督もその仲間に編纂してしまおう。

必要なのはチャンスだ。作品をより多くの観客の眼前へと提示し、ブログや口コミで忌憚なき感想を放出され、絶賛と酷評のレビュー濁流に呑み込まれるチャンス。女性監督11人による競作集『桃まつり』はその絶好の見本市と言えよう。製作費の高低はあまり問題ではない。なぜならクリエイターの本質とは、根源的に無から何かを創出することでもあるから。各々の才能の片鱗が誤魔化しなく刻印されているのは、その中からダイヤの原石を見つけたい僕らにとって幸運ですらある。

そして世の中「不況、不況」の大合唱が続いているが、どんな業種でも苦境にこそハングリー精神あふれる凄い新人が現れるものと相場が決まっている。この法則は映画業界でも変わるまい。さて、この11人のなかから将来的に飛び出してくるのは誰か。我々もプロデューサーにでもなったつもりで、その可能性の胚芽を見つめ、育ててみよう。

以下、3月13日~17日の上映プログラム『桃まつり~壱のうそ~』各作品をレビューする。

momomatsuri1_2.jpg「壱のうそ」は竹本直美監督の『迷い家』で幕をあける。青年が彷徨う森と、その中にひっそりと佇む家屋。精霊のように現れる女性。暗闇に差し込む光が職人の技のごとく作品を貫き、その陽光が段々と翳っていく様があたかも”少年の日”の終わりを暗示しているかのよう。では青年が井戸のなかに見つけたものは何だったのか。エロス的な解釈もできそうだ。ともあれ、漱石の「夢十夜」のひとつに編纂してしまいたい一作。観賞後も耳にずっと残る神秘的なSEや音楽にも注目したい。

momomatsuri1_3.jpg増田佑可監督の『バーブの点滅と』は、つい先日、寺島しのぶがベルリンで女優賞を獲得した『キャタピラー』を想起してしまうような江戸川乱歩的な発想を、触感やわらかな四畳半SFとして昇華する。出したり、入れたり、吸い込んだり、吸い込まれたり。文学的な響きのモノローグがいささか先行してしまうので、これをいかに映像のみ力へとシフトし観客の心に伝えるか。その点を追究していくと、同じアイディアがとんでもない傑作長編へ化けそうな気がする。

momomatsuri1_4.jpg福本明日香監督の『shoelace』は、親子ほど歳の離れたふたりの女性と、その狭間を漂う杉山彦々を絶妙に配置したドラマ。一見、気の重くなる昼ドラ的なシチュエーションにサッと春風の吹きこんでくるかのようなアクション(動作)を盛り込み、人と人との関係性が刻一刻と新たに更新されていく様子が伝わってくる。タイトルは「靴紐」。これは自然にほどけるのではなく、他者との新たな関係性を求めて自ら胸の内を緩め「準備OK」を示す合図のようにも思えた。

momomatsuri1_5.jpgそしてトリを務めるのは『テクニカラー』。ひなびたバーでマジックショーのどさ回りを続ける母娘。大きなバッグを引きずり長い階段を下りる冒頭シークエンスだけで思わず心掴まれ、30分間、呼吸一息でストーリーが軽快に貫かれる。黒沢清作品のミューズ洞口依子と新生・小野ゆり子の絶妙なコンビネーションもさることながら、脇の役者陣もそれぞれのキャラがバランス良く要所を担う。

監督は『携帯彼氏』で長編劇場作デビューを果たした船曳真珠。撮影には『パビリオン山椒魚』『亀虫』など富永作品や『ランニング・オン・エンプティ』などを手掛ける月永雄太。絡みつくような怪しい映像美に折り重なる独特のリズム感が心地よい混乱を誘う。「テクニカラー」というよくわからないタイトルも、観賞後にはどうにもシックリきてしまう。これは何度も観たくなる逸品。


桃まつり 壱のうそ

めくるめく11の”うそ”がはじまるー!!

公式サイトアドレス
http://www.momomatsuri.com/
3月13日(土)~26日(金)渋谷ユーロスペースにて、レイトロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2010年3月15日 by p-movie.com

パレード

『今度は愛妻家』と『パレード』。同時期に2つの作品を解き放つ行定勲監督は、自身のキャリアのなかでずっと”物語の生じる場所”にこだわり続けてきた人でもある。

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(C)2010映画『パレード』製作委員会

たとえば、『遠くの空へ消えた』では主人公が自分のなかの思い出を誰かに語り聞かせるシーンからドラマが始まる。『クローズド・ノート』は置き忘れてあった日記を手に取ることで追想が始まる。また『世界の中心で、愛をさけぶ』では恋人の知られざる過去を紐解いていくスタイルが取られる。主人公が開いた窓の向こうで更なる物語が広がっていくわけである。

そのいずれにおいても行定勲は”語りたいとする衝動”"知りたいとする衝動”を大事に掬い取り、窓の向こう側とこちら側に擁立された主人公を巧みに向き合わせていく。つまり『ネバーエンディング・ストーリー』のバスチャンとアトレーユの関係なんですね。しかもその立ち位置が観客とも接続されていくという、三すくみ、ならぬ3者の共存関係。

その点、今回は行定流のこだわりも更にハードル高めに設定されてある。吉田修一の原作小説を監督みずから脚色した本作は、東京のマンションでルームシェアしながら暮らす5人の男女の群像劇だ。藤原竜也、香里奈、貫地谷しほり、林遣都、小出恵介といった役者陣がそれぞれに巧妙な光を放ち、それが交わって幾色にも勾配の可能性を広げていく。

学校の先輩後輩だとか、親友、同業者なわけでもない。彼らは単に、”程よい距離感で接せられる関係性”を求めている。互いを知ってるようで、深くは知らない。または、嫌になったら自由に退出することだってできる。あるキャラクターはこれを「チャットや掲示板みたい」と表現する。

parade02.jpgカメラはこの不可思議な個人・集団ライフの侵入者となる。順を追って5人の主観に肉薄し、彼らの日常のなかのダークな部分までをも赤裸々に解き明かす。5人はたとえ同じものを見つめていても、その内面で全く別の風景、それぞれの物語を持っている。共同生活とはその物語を見つめあうこと。そして究極的にそれらを集約し、客観性を掘り起こしていく作業は観客のみに許された特権である。これこそ群像劇の醍醐味といえば醍醐味―。

つまり映画のタイトルでもある『パレード』とは、作りモノの馬車に乗ってグルグル人生を旋回しつづける5人の若者たちと、その中心部分で彼らの姿をじっと俯瞰し続ける僕ら観客との、互いの共存・共犯関係を言うのではないか。

ゆえに今回の行定印「物語の生じる場所」とは、ひとつに共同生活における個々の目線。さらに各々の主観を蓄積し”客観”が生成されていく僕らの脳内でさえある。そしてもうひとつの可能性として、ラストシーンに象徴される”とある関係性”が浮上するのだが・・・いろいろと深読みできるこのラスト、言及するとネタばれになるのでやめておこう。

映画のなかで誰かが「ユニバース」ではなく、「マルチバース」と口にする。「世界はひとつではない。存在する人の数だけ世界は存在する」との考え方らしい。「私とあなたとは違うんですよ」と記者会見で言い放ったどこかの国の首相も、このマルチバースのことを言いたかったのかも。

行定監督が原作とは異なる落とし所を付与した『パレード』。ここにもきっと観た人の数だけ解釈の世界が広がることだろう。

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パレード

歪みはじめる、僕らの日常

公式サイトアドレス
http://www.parade-movie.com/main.html
2月20日(土)渋谷シネクイント、新宿バルト9ほか全国ロードショー
(C)2010映画『パレード』製作委員会

【映画ライター】牛津厚信

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2010年2月18日 by p-movie.com

おとうと

学生のころは、山田洋次の映画なんて中高年が観るものだと思っていた。が、自分も30代に入ると、その魅力にどんどんはまりこんでいった。これはひとえに僕がオッサン化の一途を辿っているせいだろうか。

otouto1.jpg人間たるもの、歳をとればとるほど幾つもの痛みを経験し、いつまでもあると思い込んでいたものが実はそうではなかったことに、ある日突然気付かされる。大切なものが永遠ではないと知る。

だからこそ中高年層の観客は山田作品に尊さを見出すのではないか。フレームのなかで永遠に持続しそうな時
間の流れに身をゆだね、そっと心を置いてきてしまう。そしてその世界すら本当は永遠ではないと知っているからこそ、観客の体内で映画は”束の間の永遠”として、なおいっそう輝きを増す。

そんな流れの中で『おとうと』は、前後半で2種類の体内時計を有しているかのような作品だった。

鶴瓶と吉永小百合の関係性は前作『母べえ』のスピンオフといっても過言ではない。きっと山田洋次は映画が自分の手から離れた後も、「吉野の山で野たれ死んだ伯父さん」(『母べえ』での鶴瓶の役どころ)のことが気になってしょうがなかったのだろう。あるいは鶴瓶に今後の山田作品の”舵取り役”としての可能性を見出したのかもしれない。監督のそうした被写体への愛情がギュッと凝縮したものこそ”弟・鉄郎”というキャラクターである。

とりわけ前半で描かれる結婚披露宴のドタバタは、山田洋次流の「台風襲来」である。和やかな祝祭的雰囲気は常にハプニングを有するもの。ウワサはすれども実際に現れるなんて誰ひとり思いもしない男の到来。あいつだ、あいつがやってくる。その瞬間、映画版『男はつらいよ』第1作目の妹さくらの結婚式を彷彿とさせる、涙と笑いの暴風雨が巻き起こるのだ。

またその破天荒な弟の投げたボールをすべて正面から受けとめようとする吉永小百合のキャッチャーミットが素晴らしい。本作が献辞を捧げる市川崑の『おとうと』(1960)の岸恵子とはまた違う芯の強さが、この映画の基底を支えている。もしも寅さんに妹ではなく姉の存在があったなら、彼はこの鶴瓶みたいになっていたのだろうか。

かと思うと、後半はやや色調が変わる。今度は現代社会を”知られざる視点”から見つめた、言うなれば『学校』シリーズのような側面を垣間見せる。そのサイドストーリーとなる蒼井優と加瀬亮の恋愛模様も、これまた往年の山田作品を想わせる瑞々しさと初々しさ。

かくも『おとうと』は、山田洋次が久々に取り組む現代劇として、いくつもの自作の映像を脳裏によぎらせたかのようだ。それに呼応し観客も、それがさも自分の体内で培われた記憶であるかのように、様々な山田作品の思い出を重ね合わせ、それぞれの”束の間の永遠”に浸ることだろう。

なお本作はベルリン国際映画祭のクロージング作品としての招待が決定している。その英語タイトルは”About Her Brother”。そっと姉の存在を匂わせるあたりが、粋である。

おとうと

家族という厄介な、でも切っても切れない絆の物語

http://www.ototo-movie.jp/
1月30日ロードショー

(C)2010「おとうと」製作委員会

【映画ライター】牛津厚信

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2010年2月12日 by p-movie.com

シャネル&ストラヴィンスキー

シャーリー・マクレーン主演の『ココ・シャネル』、オドレイ・トトゥが若き日のシャネルを演じた『ココ・アヴァン・シャネル』、そしてシャネル・イヤーの大トリを務めるのがこの『シャネル&ストラヴィンスキー』だ。

シャネルの人生にスポットライトを当てた前2作に比べて、本作はちょっと気色が違う。

デザイナーのココ・シャネル、作曲家のストラヴィンスキーという同時代に居合わせたふたりの寵児が、アーティ
ストとして、男女として激しくその感性をぶつけあう。そのほんの一瞬の火花を見逃さず、それぞれの体内に流れる全く異なるメロディーを丹念に同期させていくのである。

chanel2.jpg監督を務めるのは、『ドーベルマン』のスタイリッシュかつ破天荒な映像で世界を驚愕させたヤン・クーネン。

今回は同じ人間の演出とは思えないほどの格調高さが香る。作り手がふたりの超人に心酔し、その奇跡的瞬間の再現に息を潜めて立ち会っているかのような印象を受ける。

ただ、そのクーネンに背負わされたあまりの重責のせいか、中盤には男女のもどかしい縺れ合いが続き、いささか冗長な語り口に陥ってしまうのだが…

いや、正直、そんな細部はどうでもいいのだ!

というのも、本作はそれらの試行錯誤が瑣末に思えるほど、僕らが芸術を語る上で欠かせない歴史的大事件=ストラヴィンスキー「春の祭典」初演をフィルムに再現しているのだから。

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ストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けによるこの新作バレエが与えた衝撃は大きい。バレエの伝統を覆す奇異なるステップ、白塗りのメイク、それに美しい情景やストーリーを語るのではなく人間の内なる感情の高鳴りにこそ肉薄した変拍子サウンド。。。

観客はすぐさま計り知れない混沌に陥った。ある者は罵声を浴びせて席を立ち、またある者は全身全霊を込めて賞賛の拍手を送る。このときパリのシャンゼルゼ劇場は両者の喧騒で演奏自体が聴こえなくなるほどだったという。

しかしこのときココ・シャネルは確かに「春の祭典」に何かを感じ取ったのであり、そこから始まる蜜月が彼女に「N°5」の香りをもたらすインスピレーションともなった(と本作は推定する)。


これがアーティストたるヤン・クーネンにとって興奮に値する化学変化だったことは想像に難くない。『サイコ』や『ジョーズ』といった傑作映画音楽に影響を与えた、あの音楽の正体が知りたい。そして、当時そこに漂っていた志向の香りを体感したい。ヤン・クーネンは当時の目撃者でありたいと心から欲し、誰もやらないからこそ今ここに、その場面を自らの手で出現させたのだろう。

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いつの時代も芸術は人間を激しく突き動かす。

ある意味、クーネンの脳内には最初から最後まで、あの衝撃的な「春の祭典」が鳴りつづけていたのかもしれない。

シャネル&ストラヴィンスキー

二人の芸術家の出逢いが、「N°5」と「春の祭典」を生み出した。

http://www.chanel-movie.com/
12月19日(土)よりBunkamuraル・シネマ他にてロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2010年1月15日 by p-movie.com

ベジャール、そしてバレエはつづく

振付家モーリス・ベジャールについて、さも前から知っていたかのようにプレス資料の文言を使いまわすこともできるのだが、それはやめておこう。彼については何も知らなかった。それが僕の正直なところの立ち位置である。

そんな自分が『ベジャール、そしてバレエはつづく』の不思議な手触りの中に彼の息遣いを感じている。と言っても、ここに現れるのはベジャール本人ではない。彼は2007年、多くの人に惜しまれながらこの世を去ったという。

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ではこのドキュメンタリーの主役は誰なのか?

そこにはオープニング早々、苦悩する人々が映しだされる。ベジャールが創設したバレエ団の面々である。

ひとつの時代が幕を下ろすと、また次なる時代が幕を上げる。そうして歴史は旋回していく。そこで残るもの、消え去るもの。たとえそれが世に絶賛されたベジャールであったとしても、その功績など長大な人類の歴史からすればほんの一瞬に過ぎない。重要なのは未来である。いかにそれを受け継ぎ、後世に伝えていくか。ベジャールの真価は残された者たちによって決定づけられると言っても過言ではない。

スイスのローザンヌを本拠地にするバレエ団は、ベジャールを愛する地元のファンたちを落胆させぬよう、ベジャールの礎を守り、そしてさらなる新たな方向性を模索していかねばならない。そして彼らはベジャール没後はじめてとなる公演で市民の審判を仰ぐこととなる。

はたして彼らは次なる歴史の扉を押し開くことができるのだろうか?

bejart02.jpgカメラが、過去と未来の両ベクトルの狭間で再出発を果たそうとするバレエ団の姿を映し出す。その葛藤の姿はさすがストイック、かつプロフェッショナル。

迷ったら初心に戻れとよく言うが、バレエ団のメンバーにとっての初心とはベジャールの指導であり、言葉だ。このドキュメンタリーは何らかの壁を越えねばならない彼らの脳裏に「ベジャールの影」が現れる様子をつぶさに捉え、そこには存在しえないのに、どういうわけかベジャールの亡霊がそこに漂っているかのような雰囲気さえ醸し出す。

存在しない人物の表情を、多くの証言によって導き出す…。これは文学、演劇、映画が培ってきた伝統的な表現手段でもある。それにのっとって紡がれるドキュメンタリーであるがゆえ、たとえ僕がモーリス・ベジャールについて何も知らなかったとしても、そこには僕自身が上映中ずっとベジャールと対峙していたかのような、不思議な映画的手ごたえが残るのだろう。

バレエに興味ある方のみならず、会社や団体で組織を率いなければならない方、それに前任者の呪縛からなかなか解き放たれずにいる中間管理職の方まで、この映画には何かしらの「歴史を更新する」ヒントが詰まっているはずだ。

そして本作に触れた誰もが、やっぱり同じく、モーリス・ベジャールの息遣いにじかに触れたような感覚を味わうのだろう。

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たとえ彼のことを何ひとつ知らなかったとしても。

ベジャール、そしてバレエはつづく

モーリス・ベジャール・バレエ団の新時代の幕開けに迫る
感動のドキュメンタリー。

http://www.cetera.co.jp/bbl/
12月19日(土)よりBunkamuraル・シネマ他にてロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2009年12月18日 by p-movie.com