テンペスト

私に抱かれて、世界よ眠れ。

テンペスト

「テンペスト」がこの世に生を受けるのは、映画の発明から遡ること300年前。その後、幾度となく舞台として上演され、映画の原作としても名を残してきたこのシェイクスピアの系譜に、新たな作品が加わった。それも「ライオン・キング」をはじめとする舞台作品で名高いジュリー・テイモアが監督を務めているのだから、観客としては古典の域にとどまらぬスタイリッシュな創造性を期待せずにはいられない。それこそ彼女の初監督作でシェイクスピア物『タイタス』が見事な映像的興奮を獲得していたように。

物語は“テンペスト(嵐)”と共に始まる。手のひらに形作られた砂の城が雨に打たれ象徴的に崩壊する。雨粒はなおも激しく地を這い、それに抗おうと身をくねらせる洋上の船はやがて大きな破裂音と共に木端微塵となる。しかし命を落とした者はいなかった。高貴な身なりの男たちはバラバラに区分され、近くの島へと流れ着く。目を覚ましたその地で彼らは命拾いしたことに歓喜するかもしれない。だがここはかつて彼らに追放されし女王の住む島。彼女は魔法を使う。科学も使う。もちろん一連の嵐だって彼女が意図的に起こしたものだ。さあ、役者はすべて揃った。「LOST」のごとく不思議な現象の多発するこの島で、女王プロスペラが秘かにたくらむものとは―。

テンペスト

セリフはほぼ原文のままだという。だが決定的な違いとして、科学と魔法を操る主人公プロスペラは本作ではジュリー・テイモア監督と同じ“女性”へと書きかえられ、アカデミー賞女優ヘレン・ミレンがこの役を凄まじい執念で生ききってみせる。さすが英国俳優、シェイクスピアは基礎の基礎だ。身体にセリフが沁み込んでいる。吐き出すその一言に炎の揺らめきが見える。

また、原作では「怪獣」と称される奇妙な生き物を、ここでは黒人俳優のジャイモン・フンスーが演じる。きっとアフリカ系の観客が本作を目にすると、やや表情を歪めてしまうだろう。テイモアはシェイクスピア以前も以降も人類が変わらず歩んできた植民地支配の略奪と憎悪の傷跡を、ここにそのまま刻み込もうとしているようだ。やがてこの映画の出演者たちは大団円を迎えるかもしれない。だが、この怪物だけは、ひとり蚊帳の外だ。最後まで掠奪者と怪獣との間に和解が成し遂げられることはない。が、ヘレン・ミレンが彼を見つめるまなざしに、僅かながら感情の揺らめきが見えたのも事実だ。

かくもジュリー・テイモア版『テンペスト』は、シェイクスピア時代の通低観念に基づくこの原作の細部を構造的に入れ替えることにより、そこを貫く言葉の槍でもって現代さえも見事に突き通してみせる。

我々はビンテージ物のコスチューム・プレイを眺めながら、そこに自分たちにとってごく身近な観念さえもが乱反射して映り込む様を発見するだろう。そして嵐のあと、プロスペラが魔法と科学を駆使した怒りの矛を収め、皆が朗らかな笑顔に包まれる瞬間に、震災を経た日本の姿、近い未来そうなってほしいと願わずにはいられない姿さえもが映り込んでいる気がして、ふいに胸が張り裂けそうになった。

そこで「新世界へ!」という言葉が耳にこだまする。

シェイクスピアの作品ではお馴染みのこの言葉に、これほど心が呼応したのは今回が初めてだったかもしれない。

筆者の耳にはこれが「新しい時代へ!」という意味の希望の呪文に聴こえたのだ。

テンペスト

公式サイト http://www.tfc-movie.net/tempest/
6月11日(土)TOHOシネマズ シャンテほか全国順次ロードショー

(C)2010 Touchstone Pictures

【ライター】牛津厚信

テンペスト

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2011年6月21日 by p-movie.com

127時間

生きて帰りたい。
断崖に挟まれた一人の青年の、究極の<決断>―。
彼の勇気が世界に感動を与えた、奇跡の実話!

127時間

『スラムドッグ・ミリオネア』からもっと遠く、さらにぶっ飛んだ景色を望むために、ダニー・ボイル監督はとんでもない素材に手を出した。それはひとりの若者アーロン・ラルストンの超絶的なメモワール。トレッキング中に落石によって手を挟まれ、身動きとれなくなった彼は、生還までの127時間、何を想い、どんな情景を心にめぐらせ、如何なる決意を持って最後の脱出を試みたのか―。

脚本サイモン・ビューフォイ、音楽A.R.ラーマンともに『スラムドッグ』のチームである。が、主な出演者はジェームズ・フランコひとり。ビューフォイにとってはひとり芝居か、あるいは密室劇の脚本を執筆するみたいな感覚さえあったかもしれない。しかしそれを束ねるダニー・ボイルに至っては、この極限の閉所感覚に驚くべきイマジネーションで立ち向ってみせるのだ。フィジカルを越えろ、イマジネーションを使え、人はその想像領域においてどれほどまでも羽ばたける、と言わんばかりに。

そもそも僕はオープニング・シークエンスからして腰が砕けそうになった。A.R.ラーマンによる壮大な楽曲(スラムドッグよりも数倍パワーアップしているように感じる)に乗せて映し出されるのは想像だにしない地球の鼓動だった。朝が来る。陽が昇り、人々が営みをはじめる。通勤ラッシュ。そしてスタジアムでは人々が諸手を挙げて全身全霊で歓喜を体現する。大歓声。

『スラムドッグ』のエンディングでは出演者たちがインド映画おなじみの群舞を披露したが、本作では冒頭から主人公に代わってカメラが、映像が、アクロバティックなダンスを披露し、意識を更なる高みへと飛翔させる。たかがメモワールかもしれない。だが本作には男の辿る悪夢と陶酔の8日間の心的葛藤を、地球レベルの歓喜の歌とシンクロしたかのような圧倒的高揚が刻まれている。

時に運命は絶望の中でユーモラスに微笑み、また朦朧とした中で過酷な決断を突きつける。スクリーンに映し出される肉体的な苦闘と、その創造性あふれる精神世界との振り子運動を、観客もラルストンと共に共有することになるだろう。それゆえ、かなりの精神的緊張を強いられる場面もある。そしてふと気付くと、我々もいつしか傍観者ではなく彼と同じく体験者としてこの映画に懸命なまでに参加してしまっている。

手を頑なに食らい込んだ岩肌はひとつのきっかけに過ぎない。誰もが心に抱える精神的メタファーと捉えることもできる。そこで自由を奪われながらもやがて想いの大部分を占めるようになるのは、これまでの人生と、仕事、恋人、友人、家族、そしてここを切り抜けさえすれば在り得るかもしれない未来のビジョンだ。ごく親しい佳き人たちがいま、記憶の側から自分に頬笑みかける。生きる希望を与えてくれる。ここには過去から現在へと連なってきた生命の連鎖がある。自分には今このとき、この窮地を乗り越え、後に築かねばならない未来がたくさん残っている。そう確信したとき、彼の取るべき行動は一つしかない。

そこから一気に解き放たれる瞬間のカタルシスと言ったら、今すぐ身体に羽根が生えて飛んでいってしまうかってくらいの高揚とエクスタシーと、そして忘れてはならない、沸々と湧きおこる“感謝の気持ち”を伴っていた。誰に向けて、とは言わない。自分を支えてくれるあらゆる人間、いや自然、地球、宇宙をも含めた、すべての万物に対しての感謝の気持ちであふれかえっていく。

127時間

え?ネタばれしすぎだって?いやいや、こんなのほんの“あらすじ”に過ぎない。この映画ばかりは体験してみない一切わからない。しかも劇場で、主人公と痛みを共有しながらでないと、何も語れない。何の意味もない。

言葉が足りずに不甲斐ないが、『127時間』は僕にとってそんな映画だったのだ。たぶん、あなたにとっても。

なお、アメリカの映画祭で初お披露目された折には「観客に緊張を強いるワンシーン」において体調を崩した観客がいたという。そして先日ツイッター上で伺った意見によると、日本の試写会でも気分が悪くなった方がいらっしゃったようだ。アメリカでのレーティングはRなのにもかかわらず、日本の映倫審査では「G」(誰でも観賞可能)となっている。これでは観客の心構えに隙を作ることになるので、あえて「心臓の悪い方や精神的な刺激に過敏な方はご用心を」と書き添えておきたい。

127時間

公式サイト http://127movie.gaga.ne.jp/
6月18日(土)TOHOシネマズシャンテ、シネクイントほか全国ロードショー

(C)2010 TWENTIETH CENTURY FOX

【ライター】牛津厚信

127時間

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カテゴリー: アメリカ | ヨーロッパ | 映画レビュー

2011年6月21日 by p-movie.com

ヒア アフター

<死>に直面した3人が出会い、

<生きる>喜びを見つける。


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

かつて丹波哲郎は、自身の長年に渡るライフワークを注ぎ込んだ監督作の表題で「死んだら驚いた」と打ち出した。死とは誰の身にとっても言いようのない恐怖であり、それゆえ人類の飽くことなき興味関心の対象となりつづけ、それにまつわる多種多様な解釈は世にある宗教の最も核心的な部分を成してきた。

『ヒア アフター』はクリント・イーストウッドにとって未体験ジャンルだ。もちろん彼は、宗教者などではないどころか、これまでのフィルモグラフィーではいったいどれだけの敵対者を銃口の煙の彼方へ葬り去ってきたか知れない。法からも神の道からも逸れた文字通りの“アウトロー”。

そんな彼が死の向こう側へと想いを馳せる。いや、それは正確な表現ではない。この映画では「あの世」の具体的なビジョンなど何ひとつ登場しないからだ。メインとなるのはあくまで「この世」。それも“失った人”や“あの世”のことを必死に考え、思い悩む人間たちの孤独な姿にカメラは真向かいつづける。

それゆえこの映画にはなにひとつ嘘が無い。未知なる領域へ踏み出しながらも、「死へ想いを馳せる人間たち」という究極のリアリティに踏み留まる謙虚さ、視座の確かさ。これぞイーストウッドならではの語り口と言えよう。


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

物語は大津波から幕を開ける。『ディープ・インパクト』のそれなど比ではない。向こう側から路の両端のヤシの木をなぎ倒しながら襲い来る海水の猛威。しかも呑みこまれてからが長い。海水の激流の中できりもみしながら、障害物に激突しながら力尽きてゆくまでを圧倒的な迫力で描ききる。その場所で、ジャーナリストの女性は臨死体験に身をさらす。職場に復帰したあとも、あの時の不思議な感覚が度々蘇ってくる。いったいあの向こう側には何があったのか?

時を同じくして、ロンドンでは双子の男の子が別れの瞬間を迎えていた。性格は正反対だが、いつも連れ添って互いをフォローし合っていたふたり。しかし片方はお使いの最中に自動車事故に合い、あっという間にあの世へ行ってしまった。残された片割れは、彼がどこへ行ったのか知りたいと願っている。そして、出来ることならもういちど彼に逢いたいと願っている。

そしてアメリカ。マット・デイモン演じる孤独な男はかつて霊界と交信できると謳い脚光をあびた男。だがその能力は彼を猛烈に苦しめるばかりだった。誰かに触れると電流のごとく何かが語りかけてくる。見えなくていいものまで見えてしまう。まっとうな交友関係など結びようがない…。

この三者は、イーストウッドにお馴染みの“身体の傷”こそ見せないが、それぞれに大きな心の傷を負っている。心に空いた大きな穴を埋めようと、日々、懸命にもがいている。

それは本作の着想期、友人の死によって喪失感に打ちのめされたという脚本家ピーター・モーガンの心象とも像を合わせ、彼ら作り手、登場人物らの孤独だった日々は、物語の進展と共に穏やかなぬくもりの中へと包まれていく。またその過程は、カメラの背後にいるイーストウッドが少年の眼差しを借りて、彼もまた少年の日々に想いを馳せたであろう“死の向こう”を、あどけない表情で見つめているかのように思える。

はたして、このスーパーナチュラルが、ここ10年のイーストウッド作と同列に並べられるほど成功を収めているかどうかについては疑問が残る。彼にとって本作を手掛けることにメリットがあったのかどうかも。緊張感を徐々に詰めていくピーター・モーガンの筆致と、イーストウッドの波長が完全に噛み合っているのかどうかも、ラスト付近では首を傾げる澱みが見え隠れする。すべての謎が解けたというカタルシスが待っているわけでもない。

だが、一方で「死」というテーマをこれほど穏やかな余韻へと昇華させてくれる手腕が他に存在しただろうかとも思い知らされる。しかもそこには何の宗教臭さもないのだ。万人共通の、完全無臭の「ヒア アフター」探求。。。やはりイーストウッド=80歳の映画的視座がこの題材に挑んだという意味は大きいのかもしれない。幼い孫に「死んだらどうなるの?」と尋ねられたときの祖父的答えのような、ささやかな物語。決してキャリアの最終ゴールではなく、単なる通過点として、非常に興味深い一服を見せてもらった気がする。

ちなみに、映画とは関係ないものの、2003年に収録された名物番組「アクターズ・スタジオ・インタビュー」でのお馴染みの質問、「天国に召されたときに、神になんと言われたい?」に対して、彼はこう答えている。

「よくきたな。もうずっとここにいていいんだよ。72人の生娘たちも君のことを待ってるぜ」


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.


公式サイト  http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/index.html
2011年2月19日(土)全国ロードショー

(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

【ライター】牛津厚信

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2011年3月2日 by p-movie.com

ソーシャル・ネットワーク

天才 裏切者 危ない奴 億万長者


世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)”facebook”の創始者マーク・ザッカーバーグ。ハーバード在学中に着想、拡大させたその壮大な構想の原点にはいったいどのようなエピソードが隠されていたのか?

ストーリーだけを追うと非常にオーソドックスな映画だ。ひとりの女性が手元から去った(というか付き合っていたのかさえ分からない)のをきっかけに、腹いせか、それともゲーム感覚か、とにかく瞬く間に世界中の5億人ものユーザーと繋がってしまった青年の話。
その意味で、これはメディアを使って神になろうとした『市民ケーン』かもしれないし、または領土拡張を図る新時代の『アレキサンダー』なのかもしれない。いやこれにとどまらず、『ソーシャル・ネットワーク』には、学園、恋愛、友情、裏切り、訴訟、ビジネス、誘惑といった映画の様々なジャンルが一緒くたにされ、コンピューターの演算処理のごとくジェットコースターのごときスピードでスリリングに絡まり、ほつれ、ほどけていく。特にそのセリフの速度、量たるや尋常ではない。

ただし、そこには全くの抒情性が欠落している。これら膨大なセリフの中に、ほんとうに大切なものは果たしてどれほどあるのか。デビッド・フィンチャーの演出、アーロン・ソーキンの脚本はこの物語を推し進める幾人かの登場人物の感情にベールをかぶせ、とりわけこの人間ともモンスターとも取れるひとりの青年の相貌を不気味なまでに創出していく。

そして面白いことに、本作のザッカーバーグは感情が読み取りにくい代わりに、自身が執筆しているブログでは他人に対する罵詈雑言をたやすく吐き出している。まさに感情を外付けハードディスクに保存しているかのようなキャラクター造型。きっと多くの観客が彼の佇まいに(良くも悪くも)人間の行きつく先を垣間見るのではないだろうか。そして彼の行動を俯瞰した時、実生活で叶わぬならばせめて構造的に人と繋がっていたいという、あまりに切実な想いを感じてしまうのは気のせいだろうか。

そうして翻弄されるうちに、ふと映画は終幕-。

え、ここで終わりなの?と驚いてしまった。あまりにあっさりと、余韻のない幕切れ。もしかすると2時間半、3時間くらいにも引き延ばせたかもしれないこの物語を、本作は2時間ちょうど(!)で終わらせる、というか切り上げているのではないか。これも抒情性を剥ぎ取るひとつの方法なのだろうか。例えるならば、サイトからログ・アウト、あるいはPCをオフにするの感覚と似ている。なんだかそのやり方も含め、本作自体が恐ろしいほどネットっぽくてリアルだ。

ただし、それでいてデヴィッド・フィンチャーの創り出すひとつひとつのシークエンスは、相も変わらず深い闇と仄かな光とが同居し、静謐な中に凄味を秘め、またあらゆる感情を削ぎ落していく怪物性をも十分に匂わせている。

また、演出面でフィンチャーは、若き俳優たちがこの特殊な状態を作り上げていくまでに何十回、何百回とシーンを繰り返させたという。その様子を間近で見た脚本家アーロン・ソーキンに言わせると、「そうすることでオペラ的な演技に向かおうとする本能を鈍らせているように見えた」とのこと。

かくも高速度の“表面的”な世界を作り上げるのに、実はとてつもない綿密な創作過程と、研ぎ澄まされたビジョンを擁している本作。それに、やっぱりだ。ILM出身のフィンチャーならでは、映画が終わってから「え!そうだったの!?」と気づく、とてつもなくナチュラルな特殊効果が施されていることも書き添えておこう。

多くのフィンチャー作品と違って一滴も血は流れないが、その上をゆく危険なものが脈々と流れていたような気がする。果たしてこの映画の電源を切った時、あなたの心の中には残るのはいったいどんな感情だろうか?

公式サイト http://www.socialnetwork-movie.jp/
2011.1.15公開

(C)2009 Columbia TriStar Marketing Group, Inc. All rights reserved.

【ライター】牛津厚信

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2011年1月14日 by p-movie.com

トロン:レガシー

20年前に失踪した父を探して、
美しく危険なコンピューターの世界へ―。

まず現状として『トロン』を知らない人が圧倒的に多すぎる。なので「レガシー(遺産、受け継がれたもの)」と銘打ったところで「何が?何を?」というところから始めなければならない。が、実際のところ1982年製作の前作の知識など、ほとんど必要ない。これは3D博覧会のパビリオンみたいなもの。2010年は3D元年と呼ばれたが、『アバター』の約1年後、それを締めくくるのにふさわしい独創的な3D世界がディズニー・ブランドよりお目見えしたというわけだ。

それはまさに暗闇に蛍光グリットの線がひた走る、壮大なエレクトリカル・パレードだった。

かつて大量のアーケード・ゲームとその愛好者たちで賑わっていたゲームセンター周辺は、20年後の現代、すっかりゴーストタウンと化していた。失踪した父の痕跡を求めてそこへ足を踏み入れた息子サムを、レトロなゲーム機「トロン」が秘密部屋へと誘う。その背後で作動する自動転送装置。瞬く間にサムはトロン世界へと放り出され、かつて父が聴かせてくれたベッドタイムストーリーを現実のものとして受け止めることになる。

と、そこへ上空から旋回して舞い降りてくる赤いグリッド線の監視艇。サムはなにも分からぬまま分厚いヘルメットを被った謎の男たちによって連行されることに。。。

ここからは『グラディエーター』よろしく、未知なる世界で囚われた者が、コロセウムに送還され、擬人化されたプログラムとの死闘を余儀なくされる。生き抜かなければここから出られない。武器は背中に装着したディスク。これを振りかぶって、バウンドさせて、相手の身体を破壊する。ルールは1982年当時の『トロン』と変わらない。

ふと見上げると、コロセウムの特等席にはヘルメットの男が鎮座している。彼こそがこの世界の生みの親にして、統治者。そしてその素顔は・・・もう話の流れからおわかりだろう、サムの父親、ケヴィン。それも20年前と全く変わらない若々しいまでの彼の姿がそこにあった(この映像には『ベンジャミン・バトン』と同じ技術がつかわれているという)。。。

とまあ、「父を超える」といった古代ギリシアからスターウォーズを経て現在に至るまで受け継がれる神話の系譜が、ストーリーや専門用語を理解せずとも映像としてシンプルに流れ込んでくる。逆を言えば、物語に真新しさはない、ということなのだが。

いや、むしろ本作は何も考えずに3Dオペラとして体感的に楽しむべきものなのだろう。今回のプロジェクトを一任されたのは36歳のジョゼフ・コジンスキー。長編映画を手掛けるのはこれが初めて。CM演出では数々の受賞を受けている逸材だが、その真価はやはり誰にも有無言わさぬほどの3D映像の専門家&研究家であることに尽きる。このエキスパートがスクリーンの暗闇から下げ膳、据え膳のごとく繰り出してくる映像演出の数々に、僕らはスクリーンの四隅の限界やこれが3Dフォーマットであることも俄かに忘れ、果てしない蛍光グリット沿いの疾走に身体を任せることになる。3Dにありがちなゴチャゴチャしたビジュアルの混濁はない。研ぎ澄まされたイメージが一点透視図法の終着地を目指すがごとく、余分なものをそぎ落とし、スッキリと伝達されてくる。

また、ダフトパンクによるサウンドトラックがテンションを高める。『トロン』世界をこれほどまでに効果的に演出するデジタル音楽は彼らにしか作り得なかっただろう。また音楽のみならず彼らのお馴染みフルフェイス・マスクのコスチュームが本作『トロン:レガシー』のデザインに与えた影響もまた大きいように思える。

『アバター』よりも進化した撮影カメラ&システムを採用した本作、その成果としては『アバター』の熱狂性や情熱とは真逆の、センスやクールさを追究したきらいもある。はたしてこの趣向は映画ファンにどう受け止められるだろうか。

ぜひ2010年という時代を総括しながらこの『トロン:レガシー』の革新映像に臨んでほしい。これは、トロン世界のみならず、3D映画の来年、そのまた向こうを見通すプレゼンテーションとしても重要な意味を持つはずだ。

(C)Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

公式サイト http://www.disney.co.jp/tron/
12月17日(金)3Dロードショー

【ライター】牛津厚信

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2010年12月17日 by p-movie.com