『わたしを離さないで』著者カズオ・イシグロ記者会見

この命は、誰かのために。この心は、わたしのために。


著書「日の名残り」で英国文学の最高峰とされるブッカー賞を受賞し、同作の映画化を経てその名をますます英国民の間に浸透させた作家カズオ・イシグロ。もともと日本(長崎)で生まれ、5歳のときに父の仕事の関係で渡英した経歴を持つ彼が、今や“英国が誇る”有名作家にまでのぼりつめて久しい。

その繊細な表現世界は更なる高みへ。彼が2005年に発表した「わたしを離さないで」は、そのあまりに切ない状況設定、人物関係、そして登場人物の心象が、「日の名残り」を知らない若い読者たちの心をも魅了し、また、この作中に隠された“驚き”が世界中に静かな絶賛の渦を巻き起こしていった。

そして本作は、ついに映画化へ。

幼いころより映画という映像メディアに魅せられてきたイシグロ氏は、今回自らがエグゼクティブ・プロデューサーの役目を担い、自身の代表作を別次元へと昇華させるべく、いくつもの類稀なる才能たちとコラボレーションを遂げてきた。そうして完成した作品『わたしを離さないで』が3月26日より公開中だ。

公開を前に、約10年ぶりに来日(すでに英国に帰化している彼にとって日本は“帰国”の地ではないのだ)を果たしたカズオ イシグロ。ここに英国大使館で行われた記者会見の模様をお伝えする。彼が語る『わたしを離さないで』に込めた思い、そして映画の舞台裏とは―?

「本日はお集まりくださりありがとうございます。そして英国大使館の皆さま、この度は会見のためにわたくしを侵略(invade)させていただき、感謝申し上げます」

そんな茶目っけたっぷりの挨拶で会見は幕を開けた。日本語ではない。最初から最後まで英語通訳を介しての質疑応答となった。イシグロ氏にとって日本語とは、日本に別れを告げる5歳頃まで使っていた言語に過ぎない。今もなんとなくヒアリングは可能だそうだが、それも女性の声に限るという。どうやら彼の日本語耳は幼少期に母親が発していた声のトーンを基調としてできあがっているようだ。


【いちばん頭を悩ませた“状況設定”】

『わたしを離さないで』は、ひとりの女性介護士の目線を通して、過酷な運命、短い人生を精一杯に全うしようとする幼なじみ3人の、切ない愛と友情を描いた物語だ。

執筆にあたり、彼の頭を悩ませたのはその状況設定だったという。

「私はまず、数人の若者についての物語を書きたいと思いました。そして通常の人間は70~80年くらいの寿命であるところを、彼らだけは30歳くらいまでしか生きられない、という設定を作りだしたかった。では、どういうシチュエーションならばそれが可能になるのか。それをずっと考えていました」

主人公となる3人の男女は幼いころから寄宿舎で一緒に生活し、やがて“ある使命”のため運命を受け入れる日がやってくる。それは我々からしてみればあまりに哀しく、残酷だ。だがそんな彼らの人生にも、僅かながら幼少期、思春期、成熟期、そして老後といったものが存在する。読者や観客はやがて、本作で描かれる状況が実はこの世界に生きる我々と何ら変わらないことに気づかされるだろう。彼らのスピードがちょっと速いだけなのだ。イシグロは言う。

「人生とは考えているよりも短いもの。だからこそ、限られた時間の中で自分がいったいなにをすべきかを一生懸命に考え、行動してほしい。そういう願いをこめてこの作品を執筆しました」

この小説&映画は、まさにその「人生の本質」を伝えるための作品と言ってよさそうだ。

【エグゼクティブ・プロデューサーとしての挑戦】

今回の映画化は、『ザ・ビーチ』の原作や『サンシャイン2046』といったダニー・ボイル監督作でも名高い小説家、脚本家アレックス・ガーランドとのやりとりに端を発している。

ふたりはロンドン在住で家が近いということもあり、よく逢って話をする仲なのだそうだ。イシグロは「私を離さないで」を執筆しているさなかにも幾度にも渡ってそのアイディアを話して聴かせた。そんな中、ふとした拍子にガーランドが「映画版の脚本を書かせてくれないか」と言いだしたという。彼の才能を信頼していたイシグロはその可能性に賭けてみたいと考え、原作が出版される前からその約束を取り交わしていたという。「そうやってアレックスが書きあげた第一稿を手に、二人の側から映画会社へ売り込みをかけたんです」。つまり今回のイシグロは原作者のみならず、自ら映画化へ向けて積極的に仕掛けていったわけである。

また、監督の起用についても“情熱”が事を決定づけた。

手掛けたのは創造性に富んだミュージック・ビデオで知られ、長編作品ではロビン・ウィリアムズ主演の『ストーカー』という作品を発表しているマーク・ロマネクだ。彼が映し取る映像ときたら、これまた全てのシーンを記憶にとどめたいほどの美しさを宿している。

イシグロによると、彼もまたこの原作に魅せられ、雇われ監督としてではなく、自らの意志でこの作品を監督する機会を求めてイシグロのもとへ引き寄せられてきたという。その情熱に強く心を動かされ、イシグロはこの作品を彼に委ねようと決めた。曰く、

「彼はアメリカ人ですが、私にとってそのような国籍は全く関係がないことです。むしろ大事なのは、どれだけこの作品に思い入れがあるのか、またどれほどこの映画を作りたい情熱を抱いているのか、といったことです。アレックスと私は彼の強い意志を確認し、自分たちの抱くものと近いモノがあると確信しました」

【キャストについて】

いよいよ製作がはじまると、イシグロはただ「信じる、信頼する」ことに徹した。原作からの脚色や相違点などもすべて任せ、「あとは車の後部座席に乗り込んだような気分で、じっと成り行きを見守った」という。

そうした中、キャストには英国でいま最も注目されている3人の若手俳優が集まった。

『17歳の肖像』でアカデミー賞主演女優賞候補となったキャリー・マリガン、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでもお馴染みのキーラ・ナイトレイ、そして新たに起動する『アメージング・スパイダーマン』の主役に抜擢されたアレックス・ガーランド。まさにこれ以上ない人選である。キャスティングについてイシグロはこういった若手の活躍する英国映画界を「ゴールデンエイジ」と表現し、三人への賞賛を惜しまない。

「彼らは撮影前にそれぞれに自分たちのキャラクターについてじっくりと掘り下げて役作りを進めていました。その読みこみの深さといったら、原作者の私なんか立ち及ばないほどです。キャラクターに関する私の未創造の部分を、むしろ彼らから教えてもらったという感じです」

そしてイシグロは、自らが上梓した原作が、多くの才能の手を経て別次元へと開花していく過程を、「例えるなら、まるでひとつの作曲家の書いた曲があり、それを様々なミュージシャンが演奏することによって、表現の厚みがどんどん広がっていく、まさにそんな体験」と語った。

【映画と小説との関係性】

さて、会見の終盤でイシグロは、多くのベストセラー小説がたどる「映画化」という既定路線について、彼なりの考察を示してくれた。

そもそも小説家としてキャリアを歩む前にはテレビドラマの脚本などにも関わっていたという彼。その経験もあって、小説を執筆するときには常に映画とは別次元の表現の可能性を模索しようと心に決めているのだとか。

「ですから、私の小説を映画化することなど、どだい無理な話なんです(笑)」

イシグロはそう笑いつつも、新作小説を発表する度にエージェントに「映画化の話は来てないかな?」と確認せずにはいられないと言う。その想いの裏側には、彼が幼いころより魅せられてやまない「映画への期待」が込められているようだ。

「小説というものは、映画とまったく違った視点で構築されています。だからこそ、小説をベースにして映画へと再構築しようとする試みはフィルムメーカーにとって大きな勇気と想像力を伴うものと言えるでしょう。そしてそういう労苦を起点にしてこそ、従来のステレオタイプやジャンル物とは全く異なったユニークな題材、新しい語り口を持った映画がどんどん生まれてくると思うのです」

その言葉は、幼いころから日本とイギリスというふたつの国のアイデンティティを抱えてきた彼が自身の中で両者の整合性を保とうとしてきた姿と重なって響いてくる。国境を越えた語り手はいま、文学と映像との境界をも流麗に行き来する存在となった。

彼の作品はこれからどのように進化を遂げていくのか。文学作品、映像作品ともに、今後も世界中からの注目を集めていきそうだ。

そして願わくば、生まれ故郷の日本のことを忘れずに、これからも頻繁に来日、いや“帰国”してもらいたいものだ。

監督:マーク・ロマネク
原作:カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」ハヤカワepi文庫
出演:キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング
2010年/イギリス、アメリカ映画/シネマスコープ、配給:20世紀フォックス映画

公式サイト http://movies.foxjapan.com/watahana/
3月26日(土)より、TOHO シネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマ 他にて全国ロードショー
(C)2010 Twentieth Century Fox

【ライター】牛津厚信

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2011年4月18日 by p-movie.com

ヒア アフター

<死>に直面した3人が出会い、

<生きる>喜びを見つける。


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

かつて丹波哲郎は、自身の長年に渡るライフワークを注ぎ込んだ監督作の表題で「死んだら驚いた」と打ち出した。死とは誰の身にとっても言いようのない恐怖であり、それゆえ人類の飽くことなき興味関心の対象となりつづけ、それにまつわる多種多様な解釈は世にある宗教の最も核心的な部分を成してきた。

『ヒア アフター』はクリント・イーストウッドにとって未体験ジャンルだ。もちろん彼は、宗教者などではないどころか、これまでのフィルモグラフィーではいったいどれだけの敵対者を銃口の煙の彼方へ葬り去ってきたか知れない。法からも神の道からも逸れた文字通りの“アウトロー”。

そんな彼が死の向こう側へと想いを馳せる。いや、それは正確な表現ではない。この映画では「あの世」の具体的なビジョンなど何ひとつ登場しないからだ。メインとなるのはあくまで「この世」。それも“失った人”や“あの世”のことを必死に考え、思い悩む人間たちの孤独な姿にカメラは真向かいつづける。

それゆえこの映画にはなにひとつ嘘が無い。未知なる領域へ踏み出しながらも、「死へ想いを馳せる人間たち」という究極のリアリティに踏み留まる謙虚さ、視座の確かさ。これぞイーストウッドならではの語り口と言えよう。


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

物語は大津波から幕を開ける。『ディープ・インパクト』のそれなど比ではない。向こう側から路の両端のヤシの木をなぎ倒しながら襲い来る海水の猛威。しかも呑みこまれてからが長い。海水の激流の中できりもみしながら、障害物に激突しながら力尽きてゆくまでを圧倒的な迫力で描ききる。その場所で、ジャーナリストの女性は臨死体験に身をさらす。職場に復帰したあとも、あの時の不思議な感覚が度々蘇ってくる。いったいあの向こう側には何があったのか?

時を同じくして、ロンドンでは双子の男の子が別れの瞬間を迎えていた。性格は正反対だが、いつも連れ添って互いをフォローし合っていたふたり。しかし片方はお使いの最中に自動車事故に合い、あっという間にあの世へ行ってしまった。残された片割れは、彼がどこへ行ったのか知りたいと願っている。そして、出来ることならもういちど彼に逢いたいと願っている。

そしてアメリカ。マット・デイモン演じる孤独な男はかつて霊界と交信できると謳い脚光をあびた男。だがその能力は彼を猛烈に苦しめるばかりだった。誰かに触れると電流のごとく何かが語りかけてくる。見えなくていいものまで見えてしまう。まっとうな交友関係など結びようがない…。

この三者は、イーストウッドにお馴染みの“身体の傷”こそ見せないが、それぞれに大きな心の傷を負っている。心に空いた大きな穴を埋めようと、日々、懸命にもがいている。

それは本作の着想期、友人の死によって喪失感に打ちのめされたという脚本家ピーター・モーガンの心象とも像を合わせ、彼ら作り手、登場人物らの孤独だった日々は、物語の進展と共に穏やかなぬくもりの中へと包まれていく。またその過程は、カメラの背後にいるイーストウッドが少年の眼差しを借りて、彼もまた少年の日々に想いを馳せたであろう“死の向こう”を、あどけない表情で見つめているかのように思える。

はたして、このスーパーナチュラルが、ここ10年のイーストウッド作と同列に並べられるほど成功を収めているかどうかについては疑問が残る。彼にとって本作を手掛けることにメリットがあったのかどうかも。緊張感を徐々に詰めていくピーター・モーガンの筆致と、イーストウッドの波長が完全に噛み合っているのかどうかも、ラスト付近では首を傾げる澱みが見え隠れする。すべての謎が解けたというカタルシスが待っているわけでもない。

だが、一方で「死」というテーマをこれほど穏やかな余韻へと昇華させてくれる手腕が他に存在しただろうかとも思い知らされる。しかもそこには何の宗教臭さもないのだ。万人共通の、完全無臭の「ヒア アフター」探求。。。やはりイーストウッド=80歳の映画的視座がこの題材に挑んだという意味は大きいのかもしれない。幼い孫に「死んだらどうなるの?」と尋ねられたときの祖父的答えのような、ささやかな物語。決してキャリアの最終ゴールではなく、単なる通過点として、非常に興味深い一服を見せてもらった気がする。

ちなみに、映画とは関係ないものの、2003年に収録された名物番組「アクターズ・スタジオ・インタビュー」でのお馴染みの質問、「天国に召されたときに、神になんと言われたい?」に対して、彼はこう答えている。

「よくきたな。もうずっとここにいていいんだよ。72人の生娘たちも君のことを待ってるぜ」


(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.


公式サイト  http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/index.html
2011年2月19日(土)全国ロードショー

(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

【ライター】牛津厚信

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2011年3月2日 by p-movie.com

英国王のスピーチ

英国史上、もっとも内気な王。


(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

個性的なキャラには事欠かないイギリス王室史から、またひとりの逸材が発掘された。その人の名はジョージ6世。娘の(現女王)エリザベス2世の栄光のせいで歴史の影に隠れがちな王様ではあるものの、逆境を耐え忍ぶその姿は、混沌とした現代だからこそ力強い共振をもって観客の心に迫ってくる。

本作は幼い頃から「自分がここにいていいんだろうか?」とその正当性を問い続けてきた王様のお話だ。ジョージ5世の次男として生まれ、継承順位から言えば兄に次ぐ立場。国家や民を思う心は人一倍なれど、彼には幼いころから抱えた弱点があった。それは言葉を発すると必ず吃音を伴ってしまうこと。今日も国家行事でのスピーチが虚しい結果に終わり、彼は傷心を抱えたまま自宅で娘たち(マーガレット&エリザベス)をしっかりと抱きしめる。

そんな彼の愛妻が、すがるように最後の望みを託したスピーチ矯正の専門家がいた。ロンドンの深い霧をかき分け辿りついた、王家の者にとってはまるで不思議の世界とも思しき薄暗い診療所で、ひとりの豪州男が出迎える。その名、ライオネル。この先、彼とジョージは二人三脚でこの難題に取り組んでいくことになるのだが・・・。


(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

時代は移り変わる。前王は死に、続く兄エドワードは王冠を捨てて既婚者との婚約(イギリス国教会では禁じられている)に走った。これぞ運命の皮肉。王位はジョージのもとへ巡り、時を同じくしてイギリスには戦争の足音が忍び寄ってくる。。。今こそ国民にとって王の力強いスピーチが必要な時!涙ぐましいコーチングは、はたしてジョージの吃音を克服させられるのか?

『シングルマン』で艶やかな演技を魅せたコリン・ファースが、今回も極めて難易度の高い演技に挑んでいる。アクセル踏んでは急停止する車のごとく、彼の発話はスタッカートに次ぐスタッカート。自分の意見をほんのワン・センテンス表明することさえ困難を極め、ましてやスピーチときたら意味不明の混沌を充満させてしまう逆カリスマぶり。だが被写体に肉薄したカメラワークはジョージの物腰や表情、しゃべり方を克明に捉え、彼の繊細な心の動きを言葉以上の的確さで観客へ伝えていく。

「自分は王にふさわしいのか?」「自分はここにいていいのか?」その想いは日に日に大きくなっていく。しかし、彼は一度たりとも、そこから逃げ出してしまおうなどとは思わない。国民のために粛々と運命を受け入れ、自分のふがいなさに打ちひしがれながらも希望を失わず、前を向いて歩んでいこうとする。

また、主人公の陰影を強めるのが、ジェフリー・ラッシュ演じるライオネルという存在だ。

彼は発話の治療を施すエキスパートである一方、いつの日か俳優として英国の舞台に立ちたいと願っている変わりモノ。だが、オーストラリア人である以上、彼が舞台で英国人のセリフを口にすることは叶わぬ夢に等しい。今日もオーディション会場で演出家にそっけない評価を突きつけられた彼は肩を落として帰途に着く。

ここにも「望むべき場所に立てなかった者」が存在するというわけだ。しかし彼の目前にはいま、神の啓示のごとく新たなミッション=王の治療が突きつけられている。このときライオネルは「自分ならばジョージを救えるかもしれない」ときっと感じ取ったはず。

身分も、出身も、抱え持った宿命もまるで違う。だがジョージとライオネルは互いに人生を、自分自身ではない誰かのために捧げようとする。その宿命を甘んじて受けとめ、ときにはユーモラスに、ときには激しくぶつかり合いながらも、いつしか固い友情でさえ結ばれていく。その意味で彼らは表裏一体を成す存在といえるのかもしれない。

そしてふたりが共に挑むラストのスピーチは、自分ではない誰かのために奏でられるからこそ、あんなにも荘厳に、なおかつ現代の観客の五臓六腑にも沁み渡るほどの誇り高い響きを獲得するのだろう。このハイライトを彩るトム・フーパー監督の演出術にも注目したいところだ。

さて、アカデミー賞授賞式はいよいよ日本時間の2月28日。現時点で作品賞部門は『ソーシャル・ネットワーク』と本作の一騎討ちと言われているが、圧倒的なパワーとスピードでデジタル王国の設立秘話に迫った『ソーシャル・ネットワーク』と、オーソドックスなストーリー力学を駆使し幅広い世代に訴求力をもつ『英国王のスピーチ』。はたして米アカデミー協会の民たちはどちらの王に軍配を上げるのだろうか。

Long live the King !!


(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

公式サイト http://kingsspeech.gaga.ne.jp/
2011年2月26日(土)TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマ他全国順次公開

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

【ライター】牛津厚信

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2011年3月2日 by p-movie.com

ソーシャル・ネットワーク

天才 裏切者 危ない奴 億万長者


世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)”facebook”の創始者マーク・ザッカーバーグ。ハーバード在学中に着想、拡大させたその壮大な構想の原点にはいったいどのようなエピソードが隠されていたのか?

ストーリーだけを追うと非常にオーソドックスな映画だ。ひとりの女性が手元から去った(というか付き合っていたのかさえ分からない)のをきっかけに、腹いせか、それともゲーム感覚か、とにかく瞬く間に世界中の5億人ものユーザーと繋がってしまった青年の話。
その意味で、これはメディアを使って神になろうとした『市民ケーン』かもしれないし、または領土拡張を図る新時代の『アレキサンダー』なのかもしれない。いやこれにとどまらず、『ソーシャル・ネットワーク』には、学園、恋愛、友情、裏切り、訴訟、ビジネス、誘惑といった映画の様々なジャンルが一緒くたにされ、コンピューターの演算処理のごとくジェットコースターのごときスピードでスリリングに絡まり、ほつれ、ほどけていく。特にそのセリフの速度、量たるや尋常ではない。

ただし、そこには全くの抒情性が欠落している。これら膨大なセリフの中に、ほんとうに大切なものは果たしてどれほどあるのか。デビッド・フィンチャーの演出、アーロン・ソーキンの脚本はこの物語を推し進める幾人かの登場人物の感情にベールをかぶせ、とりわけこの人間ともモンスターとも取れるひとりの青年の相貌を不気味なまでに創出していく。

そして面白いことに、本作のザッカーバーグは感情が読み取りにくい代わりに、自身が執筆しているブログでは他人に対する罵詈雑言をたやすく吐き出している。まさに感情を外付けハードディスクに保存しているかのようなキャラクター造型。きっと多くの観客が彼の佇まいに(良くも悪くも)人間の行きつく先を垣間見るのではないだろうか。そして彼の行動を俯瞰した時、実生活で叶わぬならばせめて構造的に人と繋がっていたいという、あまりに切実な想いを感じてしまうのは気のせいだろうか。

そうして翻弄されるうちに、ふと映画は終幕-。

え、ここで終わりなの?と驚いてしまった。あまりにあっさりと、余韻のない幕切れ。もしかすると2時間半、3時間くらいにも引き延ばせたかもしれないこの物語を、本作は2時間ちょうど(!)で終わらせる、というか切り上げているのではないか。これも抒情性を剥ぎ取るひとつの方法なのだろうか。例えるならば、サイトからログ・アウト、あるいはPCをオフにするの感覚と似ている。なんだかそのやり方も含め、本作自体が恐ろしいほどネットっぽくてリアルだ。

ただし、それでいてデヴィッド・フィンチャーの創り出すひとつひとつのシークエンスは、相も変わらず深い闇と仄かな光とが同居し、静謐な中に凄味を秘め、またあらゆる感情を削ぎ落していく怪物性をも十分に匂わせている。

また、演出面でフィンチャーは、若き俳優たちがこの特殊な状態を作り上げていくまでに何十回、何百回とシーンを繰り返させたという。その様子を間近で見た脚本家アーロン・ソーキンに言わせると、「そうすることでオペラ的な演技に向かおうとする本能を鈍らせているように見えた」とのこと。

かくも高速度の“表面的”な世界を作り上げるのに、実はとてつもない綿密な創作過程と、研ぎ澄まされたビジョンを擁している本作。それに、やっぱりだ。ILM出身のフィンチャーならでは、映画が終わってから「え!そうだったの!?」と気づく、とてつもなくナチュラルな特殊効果が施されていることも書き添えておこう。

多くのフィンチャー作品と違って一滴も血は流れないが、その上をゆく危険なものが脈々と流れていたような気がする。果たしてこの映画の電源を切った時、あなたの心の中には残るのはいったいどんな感情だろうか?

公式サイト http://www.socialnetwork-movie.jp/
2011.1.15公開

(C)2009 Columbia TriStar Marketing Group, Inc. All rights reserved.

【ライター】牛津厚信

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2011年1月14日 by p-movie.com

エリックを探して

人生なんて、意外に小さな勇気でかわるもの


最高だ。最高過ぎる-。ロンドン-成田間の飛行機の中でこの映画を往復3回も観てしまった。その後、東京国際映画祭での公式上映、UK版DVD、年末から始まった東京上映でも本作と再会したものの、まだまだ飽き足らない。

そして観客を最高の気分へと押し上げてくれる映画の余韻に浸りながら、筆者は毎度、「信じられるか?これがあのケン・ローチの映画だなんて」と自分自身に問いかけてしまうのだ。

この小さな自分革命の物語は、格言めいたこの一文で幕を開ける。

“It all began with a beautiful pass from Eric Cantona.”

近年、若返りの作風で注目を集めるケン・ローチの最新作は、どこをとっても驚きづくし。なにしろ昔の女房を忘れられない男が、マリファナの一服で元サッカー選手エリック・カントナ(幻か?精霊か?)を自室へと招聘し、憧れの彼から人生哲学の教えを乞うときたもんだ。

サッカー大好きケン・ローチのことなので、本編にはもちろんエリック・カントナ現役時代の名シーンが満載。なるほど、これをスポーツの芸術的瞬間というのだろう。ほんとうにたった一本のパスから電流が走ったかのようにスタジアムの観客が総立ちになる。そして熱気は沸騰へと変わる。

「魔法使いが現れて奇跡を起こす」という筋は、僕らが幼少期から慣れ親しんできたありきたりなものだが、ローチ監督はこの素材をリアルな大人の物語、明日を切り開くための物語へと引き寄せてみせる。その魔法の導き手となるのが、他ならぬエリック・カントナ、本人というわけだ。彼もこの巨匠による大抜擢に応え、選手時代そのままの破天荒かつ力強い存在感でスクリーンを席巻していく。

そもそもローチ作品といえば、これまで“組合”や“社会主義”といった概念がハードに打ち出されることが多かった。だが今回は彼も手法を変え、これらを「チームメイトへの信頼」という最もソフトな落とし所へと集約させる。

やがて訪れる家族の大ピンチ。不運つづきの主人公。そしてひとりが悩んでいれば何処からともなく駆けつけ、“おせっかい”が感動に変わるほど強引に手を差し伸べてくれる職場の仲間たち。苦しい季節を駆け抜けて、ついに彼らが一致団結して繰り出すラストの大逆襲は本当に爽快で楽しい。

ケン・ローチのタッチは時代とともに変幻自在。「すべてがカントナのパスからはじまる」とすれば、これはあたかもローチから僕らに託された、巧妙で真心に満ちたゴールチャンスのようではないか。

あとはその球をゴールへと叩き込むだけ。

「さあ、ほら、蹴りだしてごらん!」

ローチやカントナ、そして後ろに控える無数の仲間たちの野太い声援が、少々苦しい時代を生きる僕らの背中をポジティブに押し出してくれる。なんだか底知れぬ元気をもらったような、ホカホカした気持ちに包まれる。人間って、仲間っていいなと、素直に思える。

『エリックを探して』はそんな映画なのだ。

監督:ケン・ローチ(「麦の穂をゆらす風」カンヌ国際映画祭パルムドール受賞)
脚本:ポール・ラヴァティ
出演:スティーヴ・エヴェッツ/エリック・カントナ/ジョン・ヘンショウ/ステファニー・ビショップ
配給:マジックアワー+IMJエンタテインメント
英語タイトル: LOOKING FOR ERIC

【公式サイト】 http://www.kingeric.jp
12月25日(土)、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー

(C)Canto Bros. Productions, Sixteen Films Ltd, Why Not Productions SA, Wild Bunch SA, Channel Four Television Corporation,France 2 Cinema, BIM Distribuzione, Les Films du Fleuve, RTBF (Television belge), Tornasol Films MMIX

【ライター名】牛津厚信

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2011年1月12日 by p-movie.com