NINIFUNI

世界は僕に気づかない。

NINIFUNI

昨年、一本の中編映画がレイトショー公開された。それを目撃した人々の中には配給関係者もいて、この映画が放つどうしようもなく不可解な魅力に突き動かされるように正式配給を決めたという。

NINIFUNIと書いてニニフニと読む。それは何か?マントラか?それとも呪いの言葉か?どれも違った。それは仏教用語なのだと言う。「二つであって二つではない」という意味だそうだ。が、そんなことはどうでもいいのだ。恐らくこの42分足らずの中編を受けとめたその後に、我々の体内では言葉にならない奇妙な想いがゾワゾワと侵食をはじめる。それは人をして「毒」と言わしめるかもしれない。はたまた「感動」とか「衝撃」と呼ぶ人もいるだろう。だが、筆者は思うのだ。その十人十色のリアルな感触こそ、それぞれの「ニニフニ」ではなかったかと。

本作は絶望的なまでの自然光に満ちている。ふたりの男が歩みを進める。そこに一台の車が過ぎる。瞬発的に走り出すふたり。そして事務所の裏口で、彼らは運転手の男を襲う。ここまで書けばハードボイルドな映画かと思われるかもしれない。

だがカメラはいつしかひとりの男の放浪に密着し、先ほど犯行に及んだこの若者に眩い光が降り注ぐ様を延々と追い続ける。

彼が何をしようとしているのか。目的地はどこなのか。なにも分からない。

が、どことなく死の予感が満ちていることだけは自ずと伺える。一瞬、アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』のワンシーンが頭をよぎった。死を待つ男のロードムービー。もしやこの若者も同じ末路を望もうとする儚い存在なのか―。

と、そこで我々は信じられないワンシーンを目の当たりにする。音楽用語で言えば「転調」と呼ぶのだろか。あるいはこれまで日本の土壌に照準を向けていたカメラが、一瞬のうちに地球の真反対のブラジルにまで到達したかのような時空の超越。それくらいの衝撃が全身を貫き、思考回路をショートさせ、そのヒリヒリした傷跡に海の潮風を惜しみなく塗りたくり、ギェー!と悲鳴を上げたくなるほどのクライマックスが静かに待ち構えていた。

それは我々が運命的に避けては通れない“ひとつの固定ショット”だった。まるで火と水、生と死、戦争と平和、天国と地獄、絶望と希望、貧困と富裕。かくもこの世に存在するあらゆる究極の相対する観念が荘厳なまでに同時降臨する光景だった。

映画なんて儚いものだ。この文章も、この映画のストーリーだっていつの日か容易く忘却されてしまうだろう。しかしこの鮮烈なワン・ショットだけは、きっと生涯、胸のどこかに引っかかり続けるはずだ。「2011年」というあまりに忘れがたい年の記憶と共に。

監督を務めるのは劇場デビュー作『イエロー・キッド』が「『タクシー・ドライバー』の再来」とまで絶賛された真利子哲也。絶望的なまでに美しい映像の中に痛々しいほどのリアルな空気を活写する撮影監督には『パビリオン山椒魚』や『キツツキと雨』で知られる月永雄太。主演は宮崎将、山中崇、そして、アイドルグループ“ももいろクローバー”がとてつもない役目を背負って出演しているのも注目だ。

NINIFUNI

NINIFUNI

<CREDIT>

公式ホームページ http://ninifuni.net/
ユーロスペースにて公開中、
2/25(土)より、シネ・リーブル梅田、シネマスコーレ、京都みなみ会館ほか全国順次ロードショー!
配給:ムヴィオラ 配給協力:日活

(C)ジャンゴフィルム、真利子哲也

【ライター】牛津厚信

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カテゴリー: 日本 | 映画レビュー

2012年2月20日 by p-movie.com

猿の惑星:創世記

これは人類への警鐘

猿の惑星:創世記

各メディアで「泣ける!」「大感動!」との文字があまりに踊っているので、拙レビューではこの二言を禁じてお届けしたい。が、それにしても本作について述べるとなれば、大方の文章はどれも似た書き出しとなるのだろう。

それは「誰もがこの最新作のヒットを予想だにしていなかった」ということだ。

告白しておくと、僕自身の中にも前々から予告や宣伝を見るたびに嘲笑にも似た感情が芽生えていた。また、BBCが伝えていたルパート・ワイアット監督への取材によると、今回の世界的な高評価に誰よりも彼自身が驚きを隠せないのだそうだ。いまだに戸惑いを引きずった彼は、ヒットの要因として「VFX技術をディテールに注いだこと」を挙げている。

それはつまり、ビッグバジェット映画にありがちな大規模カタルシス場面に技術を投入するのではなく、むしろ観客の体内に自然な形で入り込んでいくような場面にこそ手の込んだ作業を施しているということだ。

猿の惑星:創世記

たとえば我々は映画の中盤までくると、あのシーザーをはじめとする猿たちをひとつの個性、ひとつのキャラクターとして認識し、彼らの身体に流れる血潮や感情の起伏を一挙手一投足から読みとっている。これは『アバター』のモーションキャプチャー技術を応用して人間の俳優の顔面の動きまでをも猿の造型に投影したもの。かつてこれほど人間以外の外見をした生き物の感情に寄り添った映画体験があっただろうかと、映画が終わってから徐々に驚きが込み上げてくる。

また、今回の着眼点が我々の暮らしに、または現代社会の要素に深く通低していることも評価の要因だ。

そもそも旧『猿の惑星』シリーズは、アメリカが公民権運動やベトナム戦争に揺れていた時代、当時の観客の意識を“虐げる者”から“虐げられる者”へと転換するのに画期的な役割を果たし、結果的に啓蒙を含んだエンタテインメントとして時代と密接に結びついていった。では今回の新作ではどうなのか。再びこの現代において「権利擁護」を掲げようと言うのだろうか?

いや、そうではない。本作では事の発端となる「アルツハイマーの特効薬」を糸口に、“老いていく生命“と“育ちゆく生命”とのベクトルの交錯点を身を切るほどの切なさで描ききっているのだ。

あの特殊技術で描かれた猿シーザー以上に、かつて怪優として鳴らしたジョン・リスゴーが思いもかけず要介護のおじいちゃん役で現われた瞬間、僕らはいったい何を感じるだろうか。僕は思わず「わー!」とか「ひゃー!」とか声にならない感嘆をあげそうになった。そして次の瞬間、同じような状況を自分の祖母と共に日々繰り返していることに思い至った。これは彼らの物語ではなく、私の物語であり、あなたの物語でもある。

その部分を旧シリーズのような衝撃を持って突きつけるのではなく、ゆっくりと、観客と共に価値観を共有しあっていく目線の在り方が心優しく、とても受動しやすいのだ。

かつて未来世界の黙示録を描いた『猿の惑星』はいま、観客と同じ風景と日常を見つめている。それはこの混沌とした時代を、憎しみ合いではなく慈しみ合いで乗り越えていこうとする作り手の意識の現われのような気がする。

たとえ未来の結末がすでに(旧作によって)定められていようとも。

猿の惑星:創世記

公式ホームページ http://www.foxmovies.jp/saruwaku/
10月7日(金)TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー

(c) 2011 Twentieth Century Fox Film Corporation

【ライター】牛津厚信

猿の惑星:創世記

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2011年10月17日 by p-movie.com

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー

なぜ彼は、世界最初のヒーローと呼ばれたのか―。

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー

コミックスでは1941年に初登場を果たした、マーベルの中でも最古参ヒーローのひとり。この全身を星条旗であしらったかのようなコスチューム・デザインを一目見るや、なぜ彼がマーベル映画の世界戦略において最後の最後まで“出し渋り”されていたのか理解できるというものだ。

アメリカがまだある程度、世界のリーダーとしての余力を保っていた時代に彼がお目見えしたなら、それは世界中の反感を買ったことだろう。今だから許される。すっかり弱体化してしまったこの国に星条旗男の映画が産み落とされたとして、それはアメリカ万歳という発想には直結しない。むしろ生じるのは古き良き“ノスタルジー”。それを、あのロケットボーイズたちの挑戦劇『遠い空の向こうに』の名匠ジョー・ジョンストンが描くのだとするなら、そこで立ち現われてくるであろう“ほろ苦い空気”を観賞前の我々がイメージするのはそう難しいことではない。

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー

主人公は小柄な体格で幾つもの持病もちの青年スティーヴ・ロジャース。1940年代、アンクル・サムが”I Want You!”と指をさして若者たちの戦意を高揚させていたころ、彼は幾度となく兵役検査に引っ掛かり入隊を断られていた。しかし彼ときたら、おそらくマーベル・コミックのヒーローたちの中でも1、2位を争うくらいに真っ直ぐな人間。映画の中でいくつも重ねられていく善人エピソードの数々。そうしていつの日か、彼にチャンスが訪れる。軍が進めるスーパーソルジャー計画の被験者となってもらいたいとスカウトされるのだ。二つ返事で承諾した吹けば飛ぶようなヒョロヒョロな彼は、装置に入って出てくるや筋骨隆々のたくましい男へと様変わりしていた。

時は満ちた。このとびきりのパワーを使って彼はナチス・ドイツ極秘計画の粉砕にいざ向かう!!

などと、すんなりとはいかないのだ。

ページをめくると彼はステージ上のヒーローとして全国行脚しながら観客に戦時国債の重要性をミュージカル調でアピールしている。今や彼はアンクル・サムと同じ位置に収まった。もちろんスーパーパワーは持ち腐れ。それは彼を深い葛藤へと追い込んでいく。

そしてある日、仲間の突撃部隊が敵陣で消息を絶ったとの情報を耳にしたとき、彼の中で固い決意が奮い立つ。ステージ上のキャプテン・アメリカは遂に現実のスーパーヒーローとなって、いま、最も危険なエリアへたった一人で突入劇を敢行しようとしていた―。

長い!ここまでが長い!ヒーロー映画というよりは、ひとりの男の苦悩を綴ったドラマがひたすら続く。しかしそれが駄作であるというわけでは毛頭ないのだ。むしろ、だからこそ面白い!ドラマ最高!ビバ!ノスタルジー!まるで『遠い空の向こうに』の青年たちが、ひとつのロケットを空高く打ち出すべく醸成していった人間ドラマのように、ここでもスティーヴ・ロジャースがヒーローとして起つまでをひたすら根気強く、丁寧に映像化していく。

とりわけジョンストン作品で幾度も描かれる“父子の関係”がここでもポイントとなる。そもそもロジャースには父親がいない。でもだからこそ、彼の長所を最初に見抜いた亡命博士(スタンリー・トゥッチ)との間に堅い絆が垣間見られる瞬間がある。

そして軍隊生活ではトミー・リー・ジョーンズ演じる気難しい大佐の背中にも武骨な父親像が見え隠れする。彼らの一方通行のやり取りがまるで分かりあえない父子のようでなんとユニークなことか。

彼らトゥッチとジョーンズのキャラがふたつ合体すると、理想的なロジャースの父親像ができあがってくるかのようだ。

また、もうひとつの鍵となるのが次回作(2012年夏公開)となるマーベル・ヒーロー大集合ムービー『アベンジャーズ』への布石である。『アイアンマン』、『マイティ・ソー』との結節点を多分に盛り込み、人物、アイテム、世界観などが密接に絡まり合っていく様を、息を呑んで見守ることになるだろう。

そして訪れるラスト、『アベンジャーズ』と時代背景を合わせるべく、キャプテンは現代へと降臨を果たす。その衝撃はしかと本編で確認していただくとして、そのクライマックスが本当に切ない。こんなんでヒーロー映画と呼べるのかってくらい切なすぎる。試写が終わって感想を口にする人たちからも幾度となく「せつねー!」という声が漏れ聞こえた。とくにロジャースの最後のセリフにホロッと泣かされてしまう。

この余韻に浸りながら、今日、もう何度目だろう、またもや『遠い空の向こうに』のキュンキュンくる感触のことを思い出していた。そして帰り路のあいだ中、今日は早く戻って、あの名作のDVDを蔵出し再見しようと心に決めていた。

僕の中で『キャプテン・アメリカ』はマーベル映画でありながら、やはりジョー・ジョンストン印の、何かが噴射して空高く上昇していく高揚と感動に満ちた映画なのだった。

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー

公式ホームページ http://www.captain-america.jp/
10月14日(金)丸の内ルーブルほか全国超拡大3D公開

(C)2010 MVLFFLLC. TM &(C)2010 Marvel Entertainment, LLC and its subsidiaries. All rights reserved.

【ライター】牛津厚信

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー

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カテゴリー: アメリカ | 映画レビュー

2011年10月17日 by p-movie.com

テンペスト

私に抱かれて、世界よ眠れ。

テンペスト

「テンペスト」がこの世に生を受けるのは、映画の発明から遡ること300年前。その後、幾度となく舞台として上演され、映画の原作としても名を残してきたこのシェイクスピアの系譜に、新たな作品が加わった。それも「ライオン・キング」をはじめとする舞台作品で名高いジュリー・テイモアが監督を務めているのだから、観客としては古典の域にとどまらぬスタイリッシュな創造性を期待せずにはいられない。それこそ彼女の初監督作でシェイクスピア物『タイタス』が見事な映像的興奮を獲得していたように。

物語は“テンペスト(嵐)”と共に始まる。手のひらに形作られた砂の城が雨に打たれ象徴的に崩壊する。雨粒はなおも激しく地を這い、それに抗おうと身をくねらせる洋上の船はやがて大きな破裂音と共に木端微塵となる。しかし命を落とした者はいなかった。高貴な身なりの男たちはバラバラに区分され、近くの島へと流れ着く。目を覚ましたその地で彼らは命拾いしたことに歓喜するかもしれない。だがここはかつて彼らに追放されし女王の住む島。彼女は魔法を使う。科学も使う。もちろん一連の嵐だって彼女が意図的に起こしたものだ。さあ、役者はすべて揃った。「LOST」のごとく不思議な現象の多発するこの島で、女王プロスペラが秘かにたくらむものとは―。

テンペスト

セリフはほぼ原文のままだという。だが決定的な違いとして、科学と魔法を操る主人公プロスペラは本作ではジュリー・テイモア監督と同じ“女性”へと書きかえられ、アカデミー賞女優ヘレン・ミレンがこの役を凄まじい執念で生ききってみせる。さすが英国俳優、シェイクスピアは基礎の基礎だ。身体にセリフが沁み込んでいる。吐き出すその一言に炎の揺らめきが見える。

また、原作では「怪獣」と称される奇妙な生き物を、ここでは黒人俳優のジャイモン・フンスーが演じる。きっとアフリカ系の観客が本作を目にすると、やや表情を歪めてしまうだろう。テイモアはシェイクスピア以前も以降も人類が変わらず歩んできた植民地支配の略奪と憎悪の傷跡を、ここにそのまま刻み込もうとしているようだ。やがてこの映画の出演者たちは大団円を迎えるかもしれない。だが、この怪物だけは、ひとり蚊帳の外だ。最後まで掠奪者と怪獣との間に和解が成し遂げられることはない。が、ヘレン・ミレンが彼を見つめるまなざしに、僅かながら感情の揺らめきが見えたのも事実だ。

かくもジュリー・テイモア版『テンペスト』は、シェイクスピア時代の通低観念に基づくこの原作の細部を構造的に入れ替えることにより、そこを貫く言葉の槍でもって現代さえも見事に突き通してみせる。

我々はビンテージ物のコスチューム・プレイを眺めながら、そこに自分たちにとってごく身近な観念さえもが乱反射して映り込む様を発見するだろう。そして嵐のあと、プロスペラが魔法と科学を駆使した怒りの矛を収め、皆が朗らかな笑顔に包まれる瞬間に、震災を経た日本の姿、近い未来そうなってほしいと願わずにはいられない姿さえもが映り込んでいる気がして、ふいに胸が張り裂けそうになった。

そこで「新世界へ!」という言葉が耳にこだまする。

シェイクスピアの作品ではお馴染みのこの言葉に、これほど心が呼応したのは今回が初めてだったかもしれない。

筆者の耳にはこれが「新しい時代へ!」という意味の希望の呪文に聴こえたのだ。

テンペスト

公式サイト http://www.tfc-movie.net/tempest/
6月11日(土)TOHOシネマズ シャンテほか全国順次ロードショー

(C)2010 Touchstone Pictures

【ライター】牛津厚信

テンペスト

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2011年6月21日 by p-movie.com

127時間

生きて帰りたい。
断崖に挟まれた一人の青年の、究極の<決断>―。
彼の勇気が世界に感動を与えた、奇跡の実話!

127時間

『スラムドッグ・ミリオネア』からもっと遠く、さらにぶっ飛んだ景色を望むために、ダニー・ボイル監督はとんでもない素材に手を出した。それはひとりの若者アーロン・ラルストンの超絶的なメモワール。トレッキング中に落石によって手を挟まれ、身動きとれなくなった彼は、生還までの127時間、何を想い、どんな情景を心にめぐらせ、如何なる決意を持って最後の脱出を試みたのか―。

脚本サイモン・ビューフォイ、音楽A.R.ラーマンともに『スラムドッグ』のチームである。が、主な出演者はジェームズ・フランコひとり。ビューフォイにとってはひとり芝居か、あるいは密室劇の脚本を執筆するみたいな感覚さえあったかもしれない。しかしそれを束ねるダニー・ボイルに至っては、この極限の閉所感覚に驚くべきイマジネーションで立ち向ってみせるのだ。フィジカルを越えろ、イマジネーションを使え、人はその想像領域においてどれほどまでも羽ばたける、と言わんばかりに。

そもそも僕はオープニング・シークエンスからして腰が砕けそうになった。A.R.ラーマンによる壮大な楽曲(スラムドッグよりも数倍パワーアップしているように感じる)に乗せて映し出されるのは想像だにしない地球の鼓動だった。朝が来る。陽が昇り、人々が営みをはじめる。通勤ラッシュ。そしてスタジアムでは人々が諸手を挙げて全身全霊で歓喜を体現する。大歓声。

『スラムドッグ』のエンディングでは出演者たちがインド映画おなじみの群舞を披露したが、本作では冒頭から主人公に代わってカメラが、映像が、アクロバティックなダンスを披露し、意識を更なる高みへと飛翔させる。たかがメモワールかもしれない。だが本作には男の辿る悪夢と陶酔の8日間の心的葛藤を、地球レベルの歓喜の歌とシンクロしたかのような圧倒的高揚が刻まれている。

時に運命は絶望の中でユーモラスに微笑み、また朦朧とした中で過酷な決断を突きつける。スクリーンに映し出される肉体的な苦闘と、その創造性あふれる精神世界との振り子運動を、観客もラルストンと共に共有することになるだろう。それゆえ、かなりの精神的緊張を強いられる場面もある。そしてふと気付くと、我々もいつしか傍観者ではなく彼と同じく体験者としてこの映画に懸命なまでに参加してしまっている。

手を頑なに食らい込んだ岩肌はひとつのきっかけに過ぎない。誰もが心に抱える精神的メタファーと捉えることもできる。そこで自由を奪われながらもやがて想いの大部分を占めるようになるのは、これまでの人生と、仕事、恋人、友人、家族、そしてここを切り抜けさえすれば在り得るかもしれない未来のビジョンだ。ごく親しい佳き人たちがいま、記憶の側から自分に頬笑みかける。生きる希望を与えてくれる。ここには過去から現在へと連なってきた生命の連鎖がある。自分には今このとき、この窮地を乗り越え、後に築かねばならない未来がたくさん残っている。そう確信したとき、彼の取るべき行動は一つしかない。

そこから一気に解き放たれる瞬間のカタルシスと言ったら、今すぐ身体に羽根が生えて飛んでいってしまうかってくらいの高揚とエクスタシーと、そして忘れてはならない、沸々と湧きおこる“感謝の気持ち”を伴っていた。誰に向けて、とは言わない。自分を支えてくれるあらゆる人間、いや自然、地球、宇宙をも含めた、すべての万物に対しての感謝の気持ちであふれかえっていく。

127時間

え?ネタばれしすぎだって?いやいや、こんなのほんの“あらすじ”に過ぎない。この映画ばかりは体験してみない一切わからない。しかも劇場で、主人公と痛みを共有しながらでないと、何も語れない。何の意味もない。

言葉が足りずに不甲斐ないが、『127時間』は僕にとってそんな映画だったのだ。たぶん、あなたにとっても。

なお、アメリカの映画祭で初お披露目された折には「観客に緊張を強いるワンシーン」において体調を崩した観客がいたという。そして先日ツイッター上で伺った意見によると、日本の試写会でも気分が悪くなった方がいらっしゃったようだ。アメリカでのレーティングはRなのにもかかわらず、日本の映倫審査では「G」(誰でも観賞可能)となっている。これでは観客の心構えに隙を作ることになるので、あえて「心臓の悪い方や精神的な刺激に過敏な方はご用心を」と書き添えておきたい。

127時間

公式サイト http://127movie.gaga.ne.jp/
6月18日(土)TOHOシネマズシャンテ、シネクイントほか全国ロードショー

(C)2010 TWENTIETH CENTURY FOX

【ライター】牛津厚信

127時間

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2011年6月21日 by p-movie.com