おとうと

学生のころは、山田洋次の映画なんて中高年が観るものだと思っていた。が、自分も30代に入ると、その魅力にどんどんはまりこんでいった。これはひとえに僕がオッサン化の一途を辿っているせいだろうか。

otouto1.jpg人間たるもの、歳をとればとるほど幾つもの痛みを経験し、いつまでもあると思い込んでいたものが実はそうではなかったことに、ある日突然気付かされる。大切なものが永遠ではないと知る。

だからこそ中高年層の観客は山田作品に尊さを見出すのではないか。フレームのなかで永遠に持続しそうな時
間の流れに身をゆだね、そっと心を置いてきてしまう。そしてその世界すら本当は永遠ではないと知っているからこそ、観客の体内で映画は”束の間の永遠”として、なおいっそう輝きを増す。

そんな流れの中で『おとうと』は、前後半で2種類の体内時計を有しているかのような作品だった。

鶴瓶と吉永小百合の関係性は前作『母べえ』のスピンオフといっても過言ではない。きっと山田洋次は映画が自分の手から離れた後も、「吉野の山で野たれ死んだ伯父さん」(『母べえ』での鶴瓶の役どころ)のことが気になってしょうがなかったのだろう。あるいは鶴瓶に今後の山田作品の”舵取り役”としての可能性を見出したのかもしれない。監督のそうした被写体への愛情がギュッと凝縮したものこそ”弟・鉄郎”というキャラクターである。

とりわけ前半で描かれる結婚披露宴のドタバタは、山田洋次流の「台風襲来」である。和やかな祝祭的雰囲気は常にハプニングを有するもの。ウワサはすれども実際に現れるなんて誰ひとり思いもしない男の到来。あいつだ、あいつがやってくる。その瞬間、映画版『男はつらいよ』第1作目の妹さくらの結婚式を彷彿とさせる、涙と笑いの暴風雨が巻き起こるのだ。

またその破天荒な弟の投げたボールをすべて正面から受けとめようとする吉永小百合のキャッチャーミットが素晴らしい。本作が献辞を捧げる市川崑の『おとうと』(1960)の岸恵子とはまた違う芯の強さが、この映画の基底を支えている。もしも寅さんに妹ではなく姉の存在があったなら、彼はこの鶴瓶みたいになっていたのだろうか。

かと思うと、後半はやや色調が変わる。今度は現代社会を”知られざる視点”から見つめた、言うなれば『学校』シリーズのような側面を垣間見せる。そのサイドストーリーとなる蒼井優と加瀬亮の恋愛模様も、これまた往年の山田作品を想わせる瑞々しさと初々しさ。

かくも『おとうと』は、山田洋次が久々に取り組む現代劇として、いくつもの自作の映像を脳裏によぎらせたかのようだ。それに呼応し観客も、それがさも自分の体内で培われた記憶であるかのように、様々な山田作品の思い出を重ね合わせ、それぞれの”束の間の永遠”に浸ることだろう。

なお本作はベルリン国際映画祭のクロージング作品としての招待が決定している。その英語タイトルは”About Her Brother”。そっと姉の存在を匂わせるあたりが、粋である。

おとうと

家族という厄介な、でも切っても切れない絆の物語

http://www.ototo-movie.jp/
1月30日ロードショー

(C)2010「おとうと」製作委員会

【映画ライター】牛津厚信

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2010年2月12日 by p-movie.com

シャネル&ストラヴィンスキー

シャーリー・マクレーン主演の『ココ・シャネル』、オドレイ・トトゥが若き日のシャネルを演じた『ココ・アヴァン・シャネル』、そしてシャネル・イヤーの大トリを務めるのがこの『シャネル&ストラヴィンスキー』だ。

シャネルの人生にスポットライトを当てた前2作に比べて、本作はちょっと気色が違う。

デザイナーのココ・シャネル、作曲家のストラヴィンスキーという同時代に居合わせたふたりの寵児が、アーティ
ストとして、男女として激しくその感性をぶつけあう。そのほんの一瞬の火花を見逃さず、それぞれの体内に流れる全く異なるメロディーを丹念に同期させていくのである。

chanel2.jpg監督を務めるのは、『ドーベルマン』のスタイリッシュかつ破天荒な映像で世界を驚愕させたヤン・クーネン。

今回は同じ人間の演出とは思えないほどの格調高さが香る。作り手がふたりの超人に心酔し、その奇跡的瞬間の再現に息を潜めて立ち会っているかのような印象を受ける。

ただ、そのクーネンに背負わされたあまりの重責のせいか、中盤には男女のもどかしい縺れ合いが続き、いささか冗長な語り口に陥ってしまうのだが…

いや、正直、そんな細部はどうでもいいのだ!

というのも、本作はそれらの試行錯誤が瑣末に思えるほど、僕らが芸術を語る上で欠かせない歴史的大事件=ストラヴィンスキー「春の祭典」初演をフィルムに再現しているのだから。

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ストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けによるこの新作バレエが与えた衝撃は大きい。バレエの伝統を覆す奇異なるステップ、白塗りのメイク、それに美しい情景やストーリーを語るのではなく人間の内なる感情の高鳴りにこそ肉薄した変拍子サウンド。。。

観客はすぐさま計り知れない混沌に陥った。ある者は罵声を浴びせて席を立ち、またある者は全身全霊を込めて賞賛の拍手を送る。このときパリのシャンゼルゼ劇場は両者の喧騒で演奏自体が聴こえなくなるほどだったという。

しかしこのときココ・シャネルは確かに「春の祭典」に何かを感じ取ったのであり、そこから始まる蜜月が彼女に「N°5」の香りをもたらすインスピレーションともなった(と本作は推定する)。


これがアーティストたるヤン・クーネンにとって興奮に値する化学変化だったことは想像に難くない。『サイコ』や『ジョーズ』といった傑作映画音楽に影響を与えた、あの音楽の正体が知りたい。そして、当時そこに漂っていた志向の香りを体感したい。ヤン・クーネンは当時の目撃者でありたいと心から欲し、誰もやらないからこそ今ここに、その場面を自らの手で出現させたのだろう。

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いつの時代も芸術は人間を激しく突き動かす。

ある意味、クーネンの脳内には最初から最後まで、あの衝撃的な「春の祭典」が鳴りつづけていたのかもしれない。

シャネル&ストラヴィンスキー

二人の芸術家の出逢いが、「N°5」と「春の祭典」を生み出した。

http://www.chanel-movie.com/
12月19日(土)よりBunkamuraル・シネマ他にてロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2010年1月15日 by p-movie.com

ベジャール、そしてバレエはつづく

振付家モーリス・ベジャールについて、さも前から知っていたかのようにプレス資料の文言を使いまわすこともできるのだが、それはやめておこう。彼については何も知らなかった。それが僕の正直なところの立ち位置である。

そんな自分が『ベジャール、そしてバレエはつづく』の不思議な手触りの中に彼の息遣いを感じている。と言っても、ここに現れるのはベジャール本人ではない。彼は2007年、多くの人に惜しまれながらこの世を去ったという。

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ではこのドキュメンタリーの主役は誰なのか?

そこにはオープニング早々、苦悩する人々が映しだされる。ベジャールが創設したバレエ団の面々である。

ひとつの時代が幕を下ろすと、また次なる時代が幕を上げる。そうして歴史は旋回していく。そこで残るもの、消え去るもの。たとえそれが世に絶賛されたベジャールであったとしても、その功績など長大な人類の歴史からすればほんの一瞬に過ぎない。重要なのは未来である。いかにそれを受け継ぎ、後世に伝えていくか。ベジャールの真価は残された者たちによって決定づけられると言っても過言ではない。

スイスのローザンヌを本拠地にするバレエ団は、ベジャールを愛する地元のファンたちを落胆させぬよう、ベジャールの礎を守り、そしてさらなる新たな方向性を模索していかねばならない。そして彼らはベジャール没後はじめてとなる公演で市民の審判を仰ぐこととなる。

はたして彼らは次なる歴史の扉を押し開くことができるのだろうか?

bejart02.jpgカメラが、過去と未来の両ベクトルの狭間で再出発を果たそうとするバレエ団の姿を映し出す。その葛藤の姿はさすがストイック、かつプロフェッショナル。

迷ったら初心に戻れとよく言うが、バレエ団のメンバーにとっての初心とはベジャールの指導であり、言葉だ。このドキュメンタリーは何らかの壁を越えねばならない彼らの脳裏に「ベジャールの影」が現れる様子をつぶさに捉え、そこには存在しえないのに、どういうわけかベジャールの亡霊がそこに漂っているかのような雰囲気さえ醸し出す。

存在しない人物の表情を、多くの証言によって導き出す…。これは文学、演劇、映画が培ってきた伝統的な表現手段でもある。それにのっとって紡がれるドキュメンタリーであるがゆえ、たとえ僕がモーリス・ベジャールについて何も知らなかったとしても、そこには僕自身が上映中ずっとベジャールと対峙していたかのような、不思議な映画的手ごたえが残るのだろう。

バレエに興味ある方のみならず、会社や団体で組織を率いなければならない方、それに前任者の呪縛からなかなか解き放たれずにいる中間管理職の方まで、この映画には何かしらの「歴史を更新する」ヒントが詰まっているはずだ。

そして本作に触れた誰もが、やっぱり同じく、モーリス・ベジャールの息遣いにじかに触れたような感覚を味わうのだろう。

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たとえ彼のことを何ひとつ知らなかったとしても。

ベジャール、そしてバレエはつづく

モーリス・ベジャール・バレエ団の新時代の幕開けに迫る
感動のドキュメンタリー。

http://www.cetera.co.jp/bbl/
12月19日(土)よりBunkamuraル・シネマ他にてロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2009年12月18日 by p-movie.com

カールじいさんの空飛ぶ家

原題は”Up”。このハリウッド史上最短級の単刀直入なタイトルが、ガンコじいさんの胸に去来する様々な想いを大空へと向かわせる。それは行き場を失った彼があたかも天に召されるみたいで多少ドキッとするが、だからこそ旅の道連れとなるボーイスカウト少年はカールじいさんと地上とをかろうじて繋ぐ糸のような存在なのだろう。

carl01.jpgと、ここまで書いて、これは『グラン・トリノ』の感想だったかな?と読み返してしまう自分がいる。

『ウォーリー』の脚本を手掛けたピート・ドクター監督は、本作のオープニングでも鮮やかに言葉を消失させる。カールじいさんが幼なじみの妻と歩んだ人生最良の日々とその別れをサイレントで綴り、そのシンプルゆえ誰の人生にも呼応しうる繊細な表現は観客の心に大粒の涙を降らせる。

残されたのは風船を手に持ったじいさん、ただひとり。

かつてディズニー/ピクサー作品でこれほど率直に”死”を扱ったことがあっただろうか。

carl02.jpg 加えて見どころなのは、アルベール・ラモリスの『赤い風船』を彷彿とさせるあの無数の風船の、まるで色とりどりの新芽が一斉に吹き出すかのようなお披露目シーンだ。いよいよ浮力がみなぎり、自宅がフワリフワリと浮上していく瞬間の羽毛の先端にも似た絵ざわりは、まさに「アニメ=CG=技術」を超えたアニメーターたちのアーティスティックな腕の見せ所といえよう。

中盤からは転調。冒険譚はアメリカ開拓史のようにも、あるいは行方不明の誰かを追いかけた『地獄の黙示録』のようにも変貌していく。もちろんファミリー向け映画の範疇でこれをやるのだから、濃厚な原液を薄める所作にも余念がない。

それから、次々と飛び出してくるキャラクター(人間だけとは限らない)がそれぞれ一人ぼっちの孤独な存在で、彼らがタッグを組むことで次第にファミリーの絆が育まれていく…ってのもハリウッドの王道といえば王道なわけで。

総じて気付かされるのは、他スタジオならば実写としても映像化可能な題材を、本作はあえてアニメーションの視座に基づいて具現化しているということだ。

もはやアニメーションは「この手法でなければ描けない世界」を視覚化するツールにとどまらず、皆の前にひとしく広がった世界を見つめる、ひとつの視座の域にまで到達している。

それを可能にしているのがディズニー/ピクサーとして培ってきた作家性とブランド=歴史であることは言うまでもなく、これからも彼らの作品は職人芸と最新技術の特殊工房としてジャンルを超えて視座を広げていくことだろう。

carl03.jpg

ちなみに・・・

本作に登場する不思議な犬”ダグ”は今年のカンヌ映画祭にて最も優秀な映画犬に送られる「パルムドッグ賞」を受賞している。間抜けなようで(失礼!)実は偉大な犬なのだ。これからご覧になられるかたはぜひ敬意を持って接してあげてほしい。

「カールじいさんの空飛ぶ家」《字幕スーパー版/日本語吹替版》

愛する妻が死にました―
だから私は旅に出ます。

2009年アメリカ映画
日本語字幕翻訳:石田泰子
上映時間:1時間43

配給:ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン

WALT DISNEY PICTURES/PIXER ANIMATION
STUDIOS.ALL RIGHTS RESERVED.

12月5日、全国ロードショー

公式HPhttp://www.disney.co.jp/movies/carl-gsan/
大ヒット上映中

【映画ライター】牛津厚信

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2009年12月11日 by p-movie.com

2012

その被写体として常に人類未体験の脅威を必要としてきたローランド・エメリッヒ。サイボーグ、宇宙人、怪獣、自然災害…。映像開発のハードルをひとつひとつクリアし、そこで得たサンプルを次に応用することで、映画におけるVFX技術の革新に大きく貢献してきた。そんな彼が決して同時代に生きる人間を敵としないのは、かつて米ソによって東西に引き裂かれたドイツを母国とするからなのだろうか。

2012-01.jpgエメリッヒが見せるビジョンは常に驚愕とともにあった。その功績に観客が熱狂する一方、とある批評家は「映像は凄いけど、中身はスカスカじゃないか」と罵るかもしれない。しかし映画とは、そもそもリュミエールがグランカフェで上映した「蒸気機関車」に端を発するものであり、当時、そこに居合わせた観客が驚きのあまりに席から飛び上がったとされる逸話からも、いま僕らがエメリッヒの『2012』をやはり「すげえな」と呟きながら見つめてしまう生態には、遺伝子上の符号性を感じずにいられない。

2012-02.jpg

これはいわばお祭りである。万博である。映像見本市。あるいは技術報告会とも言えるのかも。もはやマヤ文明による「2012年、地球滅亡」という予言すらもあまり関係ない(予言のことにはほとんど触れられない)。ただ地が割れ、溶岩が噴出し、街が、いや世界が壊滅し、海水が津波となって山脈を襲う。ストーリーが多少おざなりになっても気にしない。「ンな、ばかな!」という観客の必死のツッコミさえ、ここでは大地のゴゴゴ…を増幅させる音響効果として、たやすく映画の内部へと吸収されてしまう。

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だからこそ『2012』を、ディズニーの『ファンタジア』のごとく、音と映像のハーモニーとして受け止めることを提案したい。

そしてクライマックスにも増して緻密に描きこまれた前半部のハイライト、ロサンゼルスの大地震&脱出シーンを讃えよう。

スローモーションで崩壊していく高層ビルやハイウェイの間隙をすり抜けて、ジョン・キューザック演じる主人公らを乗せた車が、そして小型セスナがきりもみしながらなんとかサバイブを遂げていく。その窓からは、地表が隆起し、重力に重心を奪われた車両や人間が雪崩のように奈落の底へと呑み込まれていく光景がうかがえる。

複数のVFX工房が参加した本作ではシーンごとに多少クオリティの差があるものの、デジタル・ドメイン社担当のこのシーンに限ってはまるで絵画のような特殊効果が冴える。ダイナミックなVFX映像と、瓦礫の砂塵さえも見せつける映像の鮮明さが相俟って、まさにマクロとミクロが一気に眼前に押し寄せたかのような視覚情報の洪水。息継ぎにさえ苦慮するほどの映像世界に圧倒されながら、ようやく僕らの頭に思い浮かぶのは、「美しい…」の一言ではないだろうか。

2012-04.jpg最後に断わっておくが、『2012』を観て「地球が崩壊したらどうしよう…」と不安に駆られる心配はまず無い。本当に観客の恐怖心を刺激したいのならばそれは”ホラー”になるし、それはスペクタクル映画の本来の役割ではない。この映画の人間たちは、結局のところ、どんな状況に見舞われても生きる気満々なのだ。

そして当のエメリッヒだって、この映画とともに滅亡しようという気はさらさら無い。それどころか、この先『2012』で培った経験値を反映・増幅させ、さらなる未曾有の脅威をクリエイトしていこうと、秘かに誓いを立てていることだろう。

「2012」
これは、映画か
http://www.sonypictures.jp/movies/2012/
11月21日(土)より、丸の内ルーブル他全国ロードショー

【映画ライター】牛津厚信

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2009年11月27日 by p-movie.com