狂おしいほどの欲望と、絶望。
移ろい、漂う、心と身体。
春の微熱―。
寝てるのか覚めているのかもよくわからない。私の意識はただ宙を彷徨い、気づけばぼんやりと夜明けの南京を眺めやっている。すべてが青に包まれるこの瞬間。ふと春の嵐が吹き荒れる。水面は幾重にも波動を膨らませ、森の木々は音を立てて騒ぎ立て、そして私の胸の内も少し、ざわめく―。
『スプリング・フィーバー』の映像に触れながら、そんな心の声が聞こえたような気がした。
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『天安門、恋人たち』でタイトル通りの中国のタブーを扱い、当局より5年間の活動中止処分を受けたロウ・イエ監督。それは映画監督にとって死刑宣告にも等しいものだったろう。
だがロウ・イエはその処分をものともせず、当局の許可を一切受けぬままに『スプリング・フィーバー』を撮り上げてしまった。いわゆるゲリラ撮影というやつだ。監督にとっても俳優にとっても、ある程度の覚悟を必要とする仕事だ。そんな表現者としての大勝負の心情を、ロウ・イエは闘争心や憎しみに例えるでもなく、ただひたすら“春の微熱”へと昇華させている。少なくとも僕にはそう感じられた。
そこには大規模な経済発展を遂げる表向きの中国とはまた別の顔があった。この価値観の多様ぶり。そこで写し取ったものを芸術性へと発露させる卓越した手腕。転んでもただでは起きないどころか、それを作品として持ち上げていく得体の知れぬパワーに驚嘆させられる。
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人目を避けて激しく求めあう男と男がいる。夜な夜な繁華街に繰り出す彼らを、背後からひとりの探偵が追う。彼は男の妻に頼まれ、彼らの情事を逐一報告する役目を担っていた。探偵にも女の恋人がいた。が、ふとしたきっかけが運命を変える。差しのべられた手。彼もまた、気づけば境界を高く越え、深い微熱に呑みこまれようとしていた。。。
中国で同性愛がどれほど受け入れられているのか分からない。が、欧米ほどオープンでないことはよくわかる。身を切るほど哀しく織りなされる愛の風景は、「夜の闇」と「探偵の出現」によってフィルム・ノワールのごとく妖艶かつスリリングに展開。やがて闇(ノワール)は朝の光に中和され、観客は夜明け前の“青”が支配する極めて幻想的な情景へといざなわれていく。
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果たして、この映画の中のたったひとりでも、望むべき愛を貫けた者はいただろうか。誰かにその愛を祝福してもらえただろうか。その運命に後悔はなかっただろうか。
そこに答えは存在しない。
男はただ微熱だけを携えながら、ひとり南京の街を歩き、雑踏へと飲みこまれていく。
そんな姿がこの中国で孤独にカメラを回し続けるロウ・イエそのもののように思えた。映画製作という究極の愛撫の手段を禁じられた男が、なお愛を叫んでいる。またその愛は、当局からすればイビツで出来そこないの愛かもしれないが、この狂おしい2時間に身をさらすと、まるで祖国への熱を帯びた恋文のように感じられてやまない。
この世のすべては春風のいたずらのごとく移り変わる。中国社会も然り。その変移はこの国が『スプリング・フィーバー』とロウ・イエという才能を徐々に体内へと受け入れていく過程とも言えるのかもしれない。
ロウ・イエを定点観測していれば、中国文化の体内温度が手に取るようにわかる。彼がこれからもジャ・ジャンクーと並ぶ“中国社会の映し鏡”として世界の注目を集めていくことは間違いない。
http://www.uplink.co.jp/springfever/
11月6日(土)、渋谷シネマライズほか、全国順次ロードショー
【ライター】牛津厚信