タイトルの読み方は”シング・フォー・ダルフール”。
紛争が続くダルフール支援のためのコンサート開催当日のバルセロナを舞台に、
国際情勢に無関心な人々の姿を浮き彫りにする群像劇。
昨年の東京国際映画祭で上映され、多くの観客から賞賛を浴びた注目作。
バルセロナの朝。
クルマのラジオからは、今夜ダルフール支援のためのコンサートが開かれるというニュースが流れている。
だが、運転している男は渋滞に苛立ち、ニュースに八つ当たりしている。
なんとか駐車場へたどり着くと、急ぎ着替えて広場へ。
道化師として街角に立つその男に、出演者目当てでコンサートに訪れた女性が近づいて記念撮影。
彼女は歩き出すが、持っていたバッグをスリの少年に引ったくられてしまう…。
タイトルに反して、劇中にダルフールの状況を伝える映像は一切登場しない。
描かれるのは、人々が忙しそうにすれ違う、ごく普通の都会の風景。
街行く人を追うカメラはすれ違いざまに被写体を入れ変え、
人種も職業も様々な人々の姿を次々と捉えてゆく。
ほぼ全編モノクロの映像とテンポのよい音楽をバックに、
ユーモアを交えながら描かれてゆくヴィヴィッドな街角の風景。
友人と遊びに出かける少女。
TVゲーム片手に歩く少年。
水鉄砲でいたずらする無邪気な子ども。
国際的に活躍するビジネスマン。
パブでビール片手に与太話を繰り広げる男たち。
仲睦まじく歩く日本人老夫婦。
ドキュメンタリーではないが、
あたかも自分がバルセロナの街で人々を観察しているかのようだ。
誰しもその中に”自分に似た”人物を発見するに違いない。
それぞれの事情で行動し、一見、何の共通点もないように見える人々。
だが、ただひとつ共通しているものがある。
それは、誰一人として今日行われるコンサートの目的に興味を示さないということ。
中には話題に上げる人もいるが、その口から出てくるのは
「サッカーが弱い国は暴動が起こる」
「自分たちでなんとかしないとダメだ」
と好き勝手な言葉ばかり。
なぜ、こんなにも人々は世界の片隅で起きていることに無関心なのか?
悲惨な状況を耳にしつつも、無関心である人々への疑問が湧き上がってくる。
だが同時に、その街角に自分自身も立っていることに気付いてしまう。
無関心なのは誰でもない、映画を見ている我々だったのだ。
ヨハン・クレイマー監督の言葉によると、この映画を作るきっかけになったのは、
ダルフールに対する自分自身の無関心さに対する苛立ちだったという。
だが、完成した映画から苛立ちは感じられない。
都会の生活を冷ややかに見つめているわけでもない。
ただ、無関心であることをやめて、
世界で起こっていることに目を向けてほしいと願うささやかな気持ち。
そんな想いがストレートに伝わってくる、優しさに溢れた作品だ。
その想いを、1人でも多くの人に受け止めて欲しい。
『SING FOR DARFUR』
2009年10月3日よりヒューマントラストシネマ渋谷他 順次公開
公式サイト:http://www.plusheads.com/singfordarfur/
(C) Sing for Darfur powered by PLUS heads inc.
【映画ライター】イノウエケンイチ